傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

平安時代のようなかなしみ

最近彼女と別れまして、と彼は言った。私は、まあまあ、飲みますか、とワインのボトルを差しだし、このせりふはちょっとおじさんっぽいな、と思った。それから彼の話を聞き、さらにおじさん的に、それも人生だよ、などと言った。
私の考えるおじさん的な反応のひとつは、あんまり意味のない相槌を、なんだか深い意味があるかのように打つことだ。人生、仕事、幸福、などの大振りなことばを、「○○とはそういうものだ」「それも○○さ」「○○ってものをわかっていないな」などの定型に代入するとうまくいく。
彼はすごくいやそうな顔になり、人生の一部以外のことが俺の身に起きるわけないでしょう、人生に含まれないことは経験できないんだから、と言った。いい切りかえしだ、と私は思った。身も蓋もないところがいい。
がんばって立ちなおりますよと彼が言うので、せっかくだからしばらく今の感情を味わってたら、と私は提案した。だって、長いことつきあった好きな人と別れちゃうなんて、なかなかないことだ。もしかするとこの先一生経験できないかもしれない。
私はそういうとき、一年でも二年でもしみじみとかなしみにひたり、あらゆる角度からその感情を味わう。少し落ちついてきたら、「恋をうしなうとはどのようなことか」について毎日毎日考える。そうして、落ち着いてしまったことそのものにまたかなしみを覚え、その感情をためつすがめつする。かなしみには実にいろいろな種類があり、強度があり、色あいがあり、また、そのときの別の経験と交わって新しい感情を生む。
私がそのような話をすると、彼は眉間の皺を一段階深くし、平安時代か、と言った。
そういうのは十二単とか着てる人がすることです。平安貴族って、なんかあるとしつこくかなしがるじゃないですか。ちょう詠嘆するでしょう。袖が重くなるまで涙を流すとか、喩えひとつ考えるだけで三日くらい使ってるはずです。あれは絶対好きでやってると思いますね。やつら楽しんでますよ。そうじゃなかったら飴を舐めるみたいに感傷を反復するわけないです。それで「なんとか日記」を書くわけです。
私は平安人なのかあ、と言うと、彼はそうですと断定した。そういうのって人間関係のリソースが少ない昔の人の知恵ですよ、だって十二単の人には合コンとかないじゃないですか、だからひとつの失恋にこだわるのもわかるんだけど、現代でそんなにしつこくひとつの感傷を撫でまわしてるのはいかがなものかと思います。
じゃああなたはすぐ立ちなおってべつの女の人を好きになるわけね、と私は訊いた。もちろんですと彼は宣言した。すぐ次を見つけて浮かれて話します、現代人ですから。
私はにやにやしながら残ったお酒をのんだ。彼はそんなふうに簡単に別れた人のことを忘れられるはずがない、と思う。人を好きになって、その人にも好きになってもらえて、そうして長いこと過ごすなんてことは、現代の人間にだってそうあることではない。それに、対象と濃密なやりとりをしないで感情だけを味わうのは安全かつ甘美な経験でもあって、その誘惑から逃れるにはけっこうな強度の動機と意志が必要とされる。おおかたの場合、失恋して間もない人間はそんなものを持ちあわせていない。