傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼は何をしゃべっているんだろう

彼女は結婚して一年になる。ちかごろの生活はどう、と訊くと、ちょっとしたトラブルをおもしろおかしく話してくれてから、そうそう、とつけ加えた。そういえばね、彼、ひとりでしゃべるの。しかもシャワーを浴びてるときに。お風呂で鼻歌を歌うのはわかるんだけど、でもときどき、なんか、しゃべってるの、あきらかに歌じゃないの。
ひとりごと、と訊くと、ひとりごとといえば、ひとりごとかなあ、と彼女は考えこむ。でもシャワー限定なの。最初、「シャンプーでも切れて、持ってきてって言ってるのかな」って思った。でもそうじゃなかった。しかも気をつけて聞いてみたら、ほとんど毎回しゃべってる。
結婚前はどうだった、と訊くと、気づかなかった、と彼女は言う。それじゃあ、歌のつづきなんじゃないの、と私は言ってみる。つまりさ、歌をラップに切り替えたわけ。
彼女は、お風呂でぶつぶつ言うのとラップするのはどっちもへんねえ、と笑った。
私は注意深く、それって全然いやじゃないんだね、と確認する。彼女はにこにこ笑って、ちっとも、とこたえた。だっておもしろいもの。
私は安心した。潜在的な不満はときに、日常のささいな仕草に対する苛だちとして発露する。本人も気づかないうちに、いつもはどうとも思わなかったことが目につきはじめ、いちいち心がささくれだつようになる。
私は別の友だちに、「彼氏が着替えるとき上半身から服を身につける。すごくいやだ」と泣きながら訴えられたことがある。その人はごく真面目に、彼の服を着る仕草がたまらなくいやだと思っている。でも苛だちの源泉はべつのところにある。当人がそれをうまく把握できていないのだ。その人にとってあまりに意外なこと、あるいは認めたくないことだと、うまく認識できなくて、苛だちがよくわからないところを突破口にして出てきてしまう。
「お風呂でしゃべる」に注目している原因がそういうのだったらいやだなと思ったんだけれど、どうやらただおもしろがっているだけみたいで、私はほっとした。
彼女はとても楽しそうに、ねえ彼なにをしゃべっているのかな、知りたいな、と言う。
私は、どうか彼女がそれをいやだと思う日が来ませんように、と思う。そのちょっと変わった癖が、彼女にとって好ましいものであり続けますように。日々の生活のなかで相手への関心が薄れ、そんなことはどうでもいいと思うようになるかもしれない。それはある意味で自然なことだ。でもぜいたくを言うなら、私は三十年後にも、彼女から同じせりふを聞きたいと思う。