傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ワクチン接種の前準備

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。最初の通達から一年あまり、何度目かの通達のさなか、疫病のワクチンが提供されはじめた。地域によってはまだ順番待ちだが、私の身近な人々はすでに打ち終えたか、接種の予約ができているかである。
 私の周辺ではワクチンを打つという判断が妥当なものとして支持されているが、打つ打たないで家族と仲違いした人もあると聞く。この疫病はつくづく人間の親密さを損なう性質を持っていることであるなあと思う。
 「であるなあ」とか言っていても世の中は変わらないので、取り急ぎ自分の周辺との助け合いを強化している。たとえばワクチンについてはいろんな人とカジュアルに接種スケジュールを共有して、何かあれば駆けつける体制をとっているのだ。今日も友人のひとりから接種スケジュールのLINEが届いた。

 私はその日程を見てちょっと驚いた。私とまったく同じ日程だったからである。私はこのように返事を書いた。他の友だちならぜんぜんかまわないんだけど、なんでよりによってあなたが私と同じ日程なんですか、あなたろくに友だちいないのに。送信。

 受信。僕の友だちはいないのではない。槙野さんを入れて二人います。

 友だち二人しかいなくて友だち以外の親しい相手もいなくて実家も遠いんだから、具合悪くなったら私かもう一人が助けるしかないじゃん。送信。

 受信。おっしゃるとおりです。だから槙野さんは接種後に具合が悪くならないようにがんばってください。僕が困るので。

 がんばるけどさあ……。がんばれば副反応が出ないってことはないじゃんねえ。送信。

 受信。うん、まあそうだよね。でも大丈夫でしょう。今までも大丈夫だったし。
 こういうのを正常性バイアスと言うらしいです。危機を正しく認識できていないということです。
 それで、僕は思うんだけれど、事態を正しく認識してそれにふさわしい不安を常に保持していたら、生きるのがすごく大変になるんじゃないか。
 こういう状況だと不安になって当然だし、不安のあまり動けなくなることもありうる。でも動けなくなったって本人の生存にも幸福にも寄与しない。だからやっぱり不安になりすぎるのは妥当ではない。
 そういうわけで僕はこれでいいんですよ。自分の不安で自分の精神をむしばむのは妥当ではないし、一人でいることが快適な性質に生まれついたのに利便性のために家族とかを作るのもおかしなことだ。だから僕はこうでしかありえない。
 私的関係において他者を自分の手段として値踏みして使用するのは槙野さんのもっとも嫌うところだと思います。僕もその意見に全面的に賛同します。そういうわけで僕には友だちが必要な数だけしかいない。だから槙野さんはくれぐれも健康を保ってワクチンの副反応もほどほどに済ませてください。では。

 何が「では」だ。
 なんという勝手なやつだろうか。要は「今までの人生、生きたいように生きてきた。その結果、自分を助けてくれる人が少ししかいない。だからその数少ない友人のひとりであるおまえはがんばれ」という姿勢である。
 私のほうは他に助けてくれる人が幾人もいる。だから私が副反応で寝込んでもこの友人に出番はない。不公平じゃないか。不公平? えっと、何がどう不公平なんだ。はたから見たら私のほうがはるかに人望があるのに、なんで「損した」みたいな気分にならなきゃいけないんだ。なんかよくわかんなくなってきた。
 
 この友人は若かったころ、「一生独身でいるつもりだなんて、将来は孤独死だね、孤独腐乱死」と言われたことがある。その場では黙っていたのだが、あとからこう言っていた。
 死体がフレッシュな状態のうちに焼くことってそんなに重要なのかな。少なくとも僕は自分のフレッシュな死体を焼くことにそんなに興味が持てない。そもそも死体を早期に発見するシステムを開発すれば済む話だと思う。
 私はそれを聞いておおいに笑った。一人で死ぬことを殊更にグロテスクに表現する人は、単に死体が腐ることを恐れているのではない。家族を持たない人間への忌避感情を腐乱死体に象徴させているのだ。でもこの友人にはそういう機微がわからない。ほんとうに死体の鮮度の話をされているのだと思っている。
 そう、この友人は私にとってずっと、理路の通った確固たる身勝手ぶりを見せてくれる存在なのだ。私はそれを見るとちょっと元気になるのである。