傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あわよかばない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために人が人に話しかけるハードルは劇的に上がった。対面して声を出すことは相手にリスクを負わせるおこないであり、軽々にしてはならない。そういう合意がすみやかに形成された。
 そのために私の友人は「少なくとも一点でとても楽になった」と言うのである。その一点とは、女性である彼女に対する、知らない男性もしくは顔見知りの男性からの、色気含みの「連絡したい」「二人で話したい」「二人でどこかへ行きたい」というオファーである。

 平たく言えばナンパ、または知人からコナをかけられるというシチュエーションだけれど、彼女はこれにとにかく悩まされてきた人である。見た目の華やかさももちろんあるのだが、どうもそれだけではない。同性で彼女に恋愛感情を持っていない長年の友人である私から見ても、ほとんど理不尽なまでに「この人の特別な人間になりたい」と思わせるところがある。ちょっと油断すると「ほかの友だちよりわたしを優遇してほしい」と思ってしまう。
 ぜったい言わないけど。彼女が昔からそれに悩まされていたことを知っているという、ひそかな優越感をもって、私はそんなこと、言わないのだけれど。

 彼女はかつて、わたしたち十代だからだね、と言った。十代ってそういうものらしいからね。二十代だものね、とも言った。みんなパートナーが欲しくて活動的になるんだよね。三十代を過ぎれば、とも言った。それでも状況は変わらなかった。彼女はやがて、視線だけで相手をしりぞける技術を研くようになった。表情に嫌悪感を載せる方法を会得した。
 そして私たちはとうに四十を過ぎた。それなのに、疫病前に彼女とわたしが食事をしていると、やっぱり誰かがやってきて、あからさまに彼女の視線の上に来るように移動し、そして彼女に話しかけるのだった。

 あるとき私がそのことを話題にしたら、彼女はどこかつめたく感じられる豪快な笑いを笑って、それから言った。ああ、もう、しかたない、わたしが、そういうたちなんだ。
 彼女の容姿は相応に年をとって、彼女はその容姿に居心地良く座っていて、そして彼女は、やっぱりとても、人目を引くのだった。年をとってもそんなだから、もしかすると昔から、容姿のために話しかけられるのではないのかもしれなかった。そこには説明のつかない磁場のようなものがあるのかもしれなかった。
 主に男であるような人々、それからいくらかの男性でないような人々が彼女のまわりを物欲しげにうろうろするのは、だからしかたのないことなんだろう。魅力は権力だというのが私の認識である。そして権力はその持ち主にとって必ずしも出し入れ自由なものではないのだろう。

 いいかげんにしてほしい、とくに異性愛男子、と彼女は言った。わたしはね、男性の友だちがもっといるはずだったのよ。でも何かというと「あわよくば」ってなるんだよ、異性愛男子、けっこうな割合で。
 あわよかばない。あわよかばねえよ全然。「あわよかばない」って書いたTシャツ着たい。でもできない。せめて「あわよかばない」Tシャツがいらない数少ない男性の友人たちのことを大切にしようと思う。

 彼らは可能性に寄ってくるんだと思うよ。彼女はそうも言った。いっぱつやれそう、あるいは、自分に恋をしてくれそう、そういう可能性。異性愛女子なら、親友とか庇護者とか、なんらかのレアな存在になってくれそう、みたいな可能性。わたしにはそのような可能性の隙間があいているように見えるのだと思うよ。
 でもほとんどの場合、わたしはそうではない。わたしには隙間なんか空いていない。わたしは友人と食事をする。それは知らない人に話しかけられるためではない。あるいは友人だと思っていた人に「友人ではなくて別の何かになれ」という欲求を向けられるためではない。
 私は彼女の苦労を理解する。私は彼女が被っている迷惑を理解する。しかし一方で、私自身もほんとうは彼女の特別でありたいのにな、と思う。彼女は手を変え品を変え、「わたしと食事をしたいならわたしの特別になりたいという欲求を1グラムも出すな」と、彼女のすべての友人にいいつけている。それが彼女の友人の座の代金なのである。

 しかしそのあと世界は変わった。人が人に話しかけることの意味が変わった。彼女の架空の「あわよかばない」Tシャツをみんなが着ているような世の中になった。 彼女は言う。ソーシャルディスタンスってほんとうに素敵。ねえ、みんな、ちょうどよくそばにいて。そしてそれ以上近寄ってこないで。