傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

素朴の義務

 警察官の姿が見えた。ひやりとした。話しかけられたら東北弁で話そう。

 そう思った。何か悪いことをしていたのではない。自宅の鍵を部屋に忘れて入れなくなっただけだ。オートロックでたまにやっちゃうやつ。鍵を忘れて出るくらいだから、そもそも鍵をかけるのを忘れていて、マンションの中にさえ入れれば問題は解決する。持っているのは財布とスマートフォン、コンビニで買ったアイスクリーム、ついでに買った卵(六個パック)、夏蜜柑である。俺はホストだから、酒を飲むのが仕事みたいなものだけど、本来は甘党だ。それで夜中にアイスを買ってきたらこのざまだ。休日だから髪はセットしていないけど、堅気には見えるまい。警察官が近づいてくる。職務質問をするつもりじゃないか。ああ嫌だ。警察は嫌いだ。

 俺は思うんだけど、人間は職業に人格を侵食される。勤めていた会社が潰れてやけになってホストのアルバイトを始めて半年、内心「ああ昼間の人間たちがまぶしい」と思いながら、元来のくよくよした地味な性格を隠してちゃらちゃらしている(地味なキャラで営業するホストもいるが、俺は素人すぎて「素」を売ることができない。客商売で素顔に近いキャラを売るには高度な技術が必要だ)。その結果、なんだかやさぐれてしまった。着るものにもこだわりがないから抵抗なく先輩の服装をコピーしていて、いかにもホスト風の格好をしている。これが夜の仕事の影響でなくてなんだろうか。

 警察官だって仕事として規律の番人をやっているだけで、中身は俺と似たようなものかもしれない。頭ではそう思う。でも話しかけられるのはいやだ。もともと嫌いだったけど、昼の仕事をうしなってからよけいに警察が嫌いになった。とにかく自分が悪いですという顔をしていなければならない気がして、それが負担なのだ。

 よく考えてみれば俺は、警官なんかいなくても「自分が悪いです」という顔をしている。一昨日なんか女性客に暴言を吐かれて額をこづかれたけど、笑顔で耐えた。なんなら「ごめんなさい」と言った。俺は悪くないのに。昼間の仕事だっていっしょうけんめいやってたんだ。会社がつぶれたのは俺のせいじゃない。そのあと希望の職種で就職できないのは俺のせいだと思うけど。だいたい、好きなイラストに関係した仕事で食べていこうなんて思ったのがまちがいだったのだ。特別な才能があるわけでもないのに。ああ、やっぱり俺が悪いんだ。

 どうも、こんばんはあ。俺は小さい声で「練習」をする。完璧な東北弁である。俺は福島の、ほぼ宮城みたいなエリアの出身だ。震災以降は町の名を言えばだいたいわかってもえらえるくらい派手に被災した地域だ。地震が来たとき俺はまだ高校生で、たぶん一生分の「かわいそう」を浴びた。助けに来てくれた親戚とか、ボランティアとかから。いろんなことばや、いろんな表情によって。

 そのとき俺は学習したのだ。自分が弱い立場のときには、「いい人そう」でなければならないと。そのほうが有利で、便利だと。外見の加工は少なく、態度はおとなしく、相手の予想外のことを言わず、「素朴」でいる。それがいちばんだと。そのための武器のひとつが方言だった。方言で話すと急にいい人に見える。中身はなんにも変わっていないのに。

 警察官が俺に会釈して通り過ぎる。俺はへらへらと笑いかえす。口をきかずに済んで、よかった、と思う。地元に帰ったときに方言に戻るのは普通のことだけど、東京で方言を話すのは人工的なことだ。戦略的にしている人もいるだろうし、それが自然だという人もいるだろう。でも俺はそうじゃない。それは「素朴な若者」としての演出で、はっきり言ってしまえば、いい子にしているから手加減してくださいと言っているのと同じだ。俺はそんなのはいやだ。いい人じゃなくても存在してかまわないはずじゃないか。鍵を忘れてアイスを買いに行ったのは俺の過失だけど、でもそれだけだ。ちょっとばかだけど、警察官を見てあれこれ考えるほど後ろめたく思う必要はない。失職して安直に夜の仕事に就いて、その能力がないから「いじり要員」としてへらへら笑っているしかないけど、悪いことはしていない。

 マンションのエントランスが開く。女性がひとり出てくる。俺はさも「いま来た」みたいな顔をして入れ違いに入る。助かった。アイスクリームはだいぶ溶けていた。それをひとかたまり口に突っ込んで、唐突に思った。なんで俺は半年もイラストを描かずにぼけっとしたんだろう。ポートフォリオを更新して、就職活動をしよう。自分にとってOKな仕事を探そう。そして「素朴ないい人」の演出をやめよう。