傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

いいから主語を拾ってこい

 好きなんじゃないかと思うんですよ。

 隣のテーブルの男の声を拾い、私はぱっと耳をそばだてる。私はあまり耳がよくないんだけれど、隣のテーブルの会話を拾う能力はやけに高い。下世話なのだ。覗き趣味があるのだ。独裁者になったらすべての人にできるだけ自由な生活をしてもらってそのようすを延々と観たり会話を子細に聞いたりしたい。

 男の向かいに座った女が緊張と苦笑をふくんだ声でこたえる。そのようです。認めざるをえません。

 誤解だ、と私は思う。あなたがたは主語というものを何と心得るのか。主語がないとろくなことにならない。男のせりふはどう聞いても「わたしはあなたのことを好きなんじゃないかと思うんですよ」という意味だ。そして女のせりふは「(あなたが指摘したように)わたしはあなたのことを好きであるようだと認めざるをえません」だ。会話がぜんぜん噛み合っていない。

 彼らは自分の恋心とか下心とか、なんでもいいんだけど、自分の浮ついた感情に足を取られていて、相手に伝わりやすく話す力や相手の意図を読み取る力を一時的に喪失している。自分のことばかり考えてしまっている。色恋ってそういうもので、だからそれ自体はまあいいんだけど、大人なら自分の状態くらい把握しておいたほうがいい。この人たち、たぶんぜんぜん自覚してない。そのくせ大人らしく振る舞うことだけは遂行してしまっている。

 だいたいこの男のせりふはなんだ。「好きなんじゃないかと思う」だと。好きでいいだろ好きで。そんな大量の留保をつけるくらいなら言わなくてよろしい。じゃっかんイヤそうに言うのもわけがわからない。少しは色っぽく言え。女も女だ。誤解ついでに告ること自体はOK、まったくOKだ、だがその物言いはなんだ。自社サービスの弱点を指摘された営業の人か。なんで二人ともトーンが暗いんだ。もっとこう、花火を打ち上げるとか、花びらを撒くとか、そういうかんじで言ったらいいじゃないか。

 彼らはしばらく沈黙し、それから当たり障りのない話をはじめる。彼らはどうやら仕事仲間で、でも「御社は」とか言ってるから同僚ではない。取引先か何かだろうか。私は焦れる。仕事の話なんかこの際どうでもいいだろう。何を楽しそうに会話しているのだ。気の利いた冗談を応酬している場合か。いいからさっきの話に戻れ。戻って主語をつけろ。つけたら手をつないでおうちに帰れ。どっちのおうちでもいいから。あっ、どちらかあるいは両方に家庭があるのかな?声は大人っぽいけど、実際はいくつくらいなんだろう。なにしろ隣の席だから、目を向けたらすぐにわかってしまう。自然に彼らを眺め回すことができない。

 私はペーパーナプキンに盗み聞きの内容を簡単に書く。向かいに座っている友人に渡す。友人はふうとため息をつき、それから手洗いに立つ。戻ってきてさらさらとメモを書く。アラサー、スーツ、めがね、見目よし、指輪なし。ふたりとも。私はちいさく首を振り、嘆かわしい、とつぶやく。いい大人が肝心なときに主語を落とすなんて。いかにもちゃんとした社会人みたいな口をきいて、こなれた身なりをして、そのくせ「好き」のひとこともまともに伝えられないなんて、いったいどういうことなんだ。

 ほんとうは、と友人が言う。ほんとうはわからないのではないでしょう。私はうなずく。隣のテーブルは空になっている。だから私は遠慮なく、声に出して彼らの話をする。私が想像するに、彼らは自分の感情をみっともないと思っているのだ。できれば認めたくないと感じているのだ。振られたらいやだという怖れもあるんだろうけど、それ以上に、自分の感情に動揺している。彼らは大人だし、自分をコントロールできると思っている。みっともなさを捨てて、彼らは大人になった。みっともなかったころのことはよく覚えていない。色恋だって格好つけたままこなしていたのだ。でもなぜか格好がつかない感情がやってきた。だからそれを認めたくない。認めたくないのに、ぼろっと口に出してしまう。

 私はそのように話す。下世話だ、と友人が言う。マキノの妄想にはおそれいる。感心するくらいだ。それから、あの二人、ホテルから出てきたところだったよ。「好きなんじゃないかと思う」より前の会話を聞いてたらマキノにもわかったと思う。ホテルからこの店までだいぶ遠くて、延々と歩いてきたみたい。私はそれを聞いて再度さまざまの妄想を走らせ、にやりと笑う。それはそれは、ずいぶんと、ややこしい二人ですねえ。個人的にはその順番、けっこう好きだな。