傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

居残りのゆくえ

 うんと年下の友人と会う約束をしていたら、かれし連れていきます、とメッセージが入った。かれしは劣化していますのでよろしく。劣化、と私は内心で繰りかえした。いやな言い回しだと思った。人間はしばしば疲弊し、かならず老化し、ときに頽落する。それを劣化と表現する心性を私はいやだった。けれどもそれだけのことでかわいがっている女の子を嫌いになるのではないから、約束の日にはもちろん出かけていった。
 劣化、と私は思った。いやだと思ったはずの表現がなんだか適切に思えた。少し前に紹介されたとき、彼女の恋人は二十代半ばという年齢以上にしっかりして見えた。礼儀正しくバランスがとれていて適度に快活で見栄えのいい青年だった。小さいころから選ばれてきてそれに慣れている人々によく見られるようすだ、と私は思った。それが今はなんというか、全体にもっさりしている。冴えない。うっすらとだらしない。なるほど、と私は思う。
 私と彼女の話に的確な相槌を打ったり感じのいい表情で聞き入っていることを表現したり、そういうことも、彼はしなくなっていた。おもしろそうだったり聞いていなさそうだったりは、した。ふむ、と私は思った。なかなか悪くないですねと言った。前回より今のほうが私はリラックスできるので、助かります、あんまりぱりっとした立派な青年がいるとね、ちょっとなんだか、落ち着かなくてねえ。彼と彼女は顔を見合わせて笑った。私はたずねた。ねえあれは猫をかぶっていたんですか、ずいぶんよくできた猫だ。そりゃそうですと彼はこたえた。猫背になっていた。俺はねえマキノさん、つい最近外に出たばかりみたいなものなんです、俺の人生を生きてきたのはあの猫なんです、俺はただ猫をつくることだけに必死になっていて、かぶる猫じゃない自分のことなんか、よく知らなかった。
 マキノさんは居残り勉強ってしたことありますか。俺はいつもしてました。小学生のころ、塾に行って、終わってみんなが帰ったあと、居残り勉強をしていました。中学生のころも、任意受講の放課後の補講っていうのがあって、これがそこいらの塾よりずっとクオリティ高いんですけど、もちろんそこに参加して、居残り勉強をしていました。高校生のころも予備校が終わったあとに居残り勉強をしていました。なぜだかわかりますか。頭があんまりよくないからですよ。本当に頭のいい連中はそこまでしなくていいんです、でも俺はするんです、そうすれば幸せになれると思って。
 大学生になると、お勉強の内容も幅広くなります。高校から始まってるんですけど、振る舞いとか、見栄えとか、会話とか、文化的資本みたいなものまでが計られる、俺の対処はもちろん居残り勉強です。おかげさまで全科目合格って感じで、卒業後は自分が希望した仕事をさせていただいてます。ははは、させていただいている、みたいな言い回し、マキノさん嫌いでしょ、でも俺は言うんです、それがOKで楽だから言うんです、好きなことばじゃなくって受け入れられることばを遣うんです、考えるのめんどくせえから。多くの人がおかしいと感じないフレーズがね頭のなかにいっぱい詰まってるんです、そして時に応じたものが自動的に出てくるんです、便利ですよ、居残りするとそういう機能も身につくんです。
 ねえマキノさん、居残って勉強したって幸せになんかなれない、俺はそんなこと、ほんとは知ってました、十五くらいでいくらなんでも気づいてました、でもほかにしたいこともないから居残りを続けた、情熱とかないから、たださみしいばっかりだから、なるべく入りにくい大学のなるべく入りにくい学部に入って雰囲気イケメンになって女子大の準ミスとつきあって、あらゆる角度からボロが出てないかいつも気をつけて幸せじゃなかった。まじで疲れたしもう就職できたからいいよなあって思って、だってずっと眠いし、死にたいし、帰ってマンガ読んで寝たいし、だるいんですよ。雰囲気イケメンもけっこうたいへんなんすよ。もう彼女もほら、このとおり美人とかじゃないんだし、俺も同等でいいじゃねえかって思って、それで最近イケメンの雰囲気持って歩いてなくって、あれけっこう重いんです、すいません。
 私は彼を見る。彼は野放図に口を利きどことなく眠そうで少しばかり幸せそうに見える。よかったなと思う。私は彼女を見る。彼女は満足そうに彼を見ている。そうして言う。かれしはこのように劣化したんだよマキノさん。よかったねえと私はこたえる。彼女は満ち足りたまなざしで彼をながめまわし、格好悪いなあ、と言う。