傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

感情の解像度

 一昨年の四月、私のチームに新人が入った。まっさらな新卒だ。経験はもちろんなかった。しかし、驚くほどよく勉強する。ひとつ知らないことが出てくれば十は調べてくる。作業スピードが異常なまでに速い。しかも長持ちする。長時間の残業や休日出勤のあともけろりとしていて、代休や有給を取るようにと促さなければならない。
 なにか彼女にとって正しくないと思われることがあれば、相手が直属の上司である私でも、さらに上の管理職でも、平気でものを言う。恨みがましさがまったくなく、言葉遣いがぱりっとしているので、文句を言われても(そしてそれが多少の見当違いを含んでいても)、ほとんど気持ちがいいくらいだ。
 そういうわけで私は彼女をおおいに評価している。けれども彼女にももちろん欠点がある。彼女はとんでもない見落としやミスをすることがある。感情的には繊細だと私は推測しているのだけれど、仕事ぶりはとにかく力まかせだ。スピードはすばらしい。でもコーナーで白線からはみ出したら、ときに減点、ときに失格というものだ。
 それでペアの仕事に、少々経験を積んだチームメンバーをつけた。態度は控えめだけれど、頭が切れる。三百六十度気を配っているように思われて、「きみ、人生疲れないか」と訊いてみたくなる。そんなだから仕事の緻密さと視野の広さは随一で、私だけでなく、周囲も彼をエースとみていた。
 馬力と網羅性、スピードと緻密さ。この組み合わせはうまくいった。彼女は彼への対抗意識を隠さず、先輩にいつか追いつくと息巻いている。まあまあと私は言う。あなたがたはそれぞれとてもよいところがあって、組み合わせでよりよい効果を発揮しているんだから、彼を目指す必要はありません。ありますと彼女はこたえる。先輩の血を輸血したら私もうちょっとマシな人間になると思います。誤字とかぜったいしない。
 絶対ではないが、たしかに彼の書類の誤字はきわめて少ない。本質的ではないけれど、象徴的ではある。いちおう年長者として、輸血しても能力はうつらない、と常識的な回答をしておいた。そしてちょっと残念に思った。だって彼女はとってもさっぱりしていて、社内恋愛的な可能性があんまりないように思われたからだ。私はなぜだか、身近な人に恋人ができるとうれしくなる。
 一方の彼は、そのような気配がないこともなかった。私がペアの調子はどうかと訊くと、憂い顔で、ちょっと時間、いいですか、という。私はそういうとき、ランチに誘う。上下関係がある組み合わせで一対一の酒席をもうけるべきではないというルールが、私のなかにあるからだ。
 マキノさん、嫉妬って、したことありますか。彼が尋ねるので、あります、と回答した。恋愛がらみですかと彼は質問を重ねる。そう、一回だけ、強烈なやつを、と私はこたえる。あとはあんまりないですねえ。
 恋愛じゃない嫉妬はないんですか、つまり、他人の能力とか、将来性とか、ポジションとかについて、妬むことは。それはないんです、私はぜんぜんたいした人間じゃないのに、不思議と嫉妬は湧いてこないんですよ、ある種の人々に対する忌避や破壊衝動みたいなものはあるんですが。そうですか、僕は、特定の個人に嫉妬してます、ええ、そうです、彼女に。
 僕が年齢を意識してるって言ったらマキノさん笑いますか。笑わないでくださいよ、二十代も後半になったら、トシだなって思うんです、そして年下の人を見て、自分が若いころあんなにできたかなって、思うんです。その能力と可能性に嫉妬する。しかも彼女かわいいじゃないですか、変なところ抜けてるし。あれがかわいくなくて、なにがかわいいのかと思います。かわいいから持って帰りたいけどかわいいからそのままでいてほしい。嫉妬と庇護欲と劣等感と下心とその他もろもろで、僕はもうぐちゃぐちゃです。
 そりゃたいへんですねえ、と私は言う。マキノさん、僕らがくっつけばいいと思ってるでしょう、と彼は指摘する。可能性を感じますねと私はこたえる。だめですと彼は言う。少なくとも今は、僕の感情を恋愛と名づけるような真似、しないでください。そしたら僕の嫉妬や劣等感なんかの暗い感情はどこへ行けばいいんですか。追い出さないでください、僕の大事な感情を。
 私は感心して、そのとおりです、とこたえる。感情は、一緒くたにまとめててきとうな名前をつけちゃ、だめです。その解像度の高さ、とてもいい。ところで、きょう私に相談したかったことは、なんですか。彼は平気な顔に戻って、もう終わりました、と言う。単に話を聞いてほしかっただけです。