傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

薄暗い偶像

 なんとなく会いたくなくって、それらしい人物がいないと少しほっとした。そのくせ今から来やしないかと淡く期待した。何年かに一度その会合に参加するたび、彼女は同じ心持ちになった。反芻、と思った。その人はいつも、いなかった。その人の今の顔だって知らないのだと、彼女は思った。だから、この場にいたってわからないのだろうけれども、確信がないまま、遠くから見たいような気がした。
 十一月の二番目の土曜日の二十時からと、年に一度の日付だけが決まっている非公式のOB会だった。彼女は平均すると三年に一度くらい、それに出ていた。予定が合うと出る、というのは嘘で、気分が乗ると行く。そうそう、去年ここで会ったんですけど。在学中に仲が良かった後輩のマキノと話していると不意に、彼女の会いたくないような待っているような人の名が口にされる。彼女はあいまいに笑う。マキノは彼女の顔を覗きこむ。なんですか、へんな顔して。もしかしてなんかあったんですか。えっと、つきあってたとか。まさかあと彼女はこたえる。その逆だよ、私の好きだった人があの人を好きだったんだよ。憎かったなあ。マキノは視線をくるりと回し、どこからどこへのベクトルが同性相手かなんて想像するのは野暮ですねと言った。野暮だねえと彼女はこたえた。
 好きな人の好きな人というのはどうしようもない存在だと、若き日の彼女は思った。そいつがいなくなったら好きな人が悲しむし、いたら自分が辛いので、最初からいないことにするか、自分がその人になるか、くらいしか、解決策がない。そのころ彼女は二十歳で、恋の取り扱いにはひとつも慣れておらず、自立して自分の足で立っていると信じていたけれども、そんなのはまったく気のせいだった。棒っきれみたいな脚は蹴ればきっとぱきんと折れた。とても極端なものの考え方をしていた。自分ではもうすっかり大人のつもりだった。まったくの錯覚だった。
 好きな人と好きな人の好きな人はつきあっていなかった。どうかそうなりませんようにと、彼女はずっと祈っていた。好きな人の好きな人は、なにもかもが彼女とはちがっていた。非の打ち所がないのではなかった。その人はいかにも軽薄だったし、年上なのに落ち着きがなくって、着るものの趣味も悪かった。あんまり違うから、その人に成り代わろうという願望はほとんど意識されなかった。それなのに彼女はいつのまにかその人と同じ種類の仕事をしていた。そのときにはもう、好きな人には会えなくなっていた。ぜんぜんべつの人と早々に結婚して子を持って学生時代のことなんかすっかり忘れたみたいだった。彼女は二十代の半ばを過ぎてようやく、自分が幼稚な成りかわりの夢を見ていたことに気づいた。私はあの人になりたかったんだ。とてもとても、なりたかったんだ。ずいぶんまぬけな理由で進路が決まってしまったなあと思った。同じものになれば好きになってもらえるなんて思っていたわけでもないのに。少なくとも頭では。
 だからへんな気持ちになるの、と彼女は説明する。昔むかし、妬ましくて憎くて消えてほしくて成り代りたかった人で、しかも私よりはるかに能力が高いんだから。同じ仕事したって、ぜったいかなうわけない。私は三流にすぎないの。なろうと思ったって他人になれるものじゃないって思い知らされるのはこの年齢になってもきついものだし、劣化コピーの側から「本体」を見るのなんか嫌だよ。ぜったいにみじめになるし、もしかしたら今でも憎んでしまうかもしれない。マキノは聞いているのかいないのか、そこいらのつまみをもそもそ食べていた。彼女は社交に忙しかったから、別の人々との話に加わった。
 マキノがふたたびやってきて、こっちですよう、と大きい声を出した。テーブルのふたつ向こうから誰かがこちらへやってくるのが見えた。彼女は慌てた。ちょっとマキノあんたなにすんの。マキノは学生時代よりなお愚かに見える顔でこたえる。何って、幻想の破壊です。今年はねえ、あの人、遅れて来たんです、幹事さんに訊いたら来るか来ないかなんて一発でわかるのになんで訊かないんですか。会えばいいじゃないですか。あなたは誰の劣化コピーでもなくて、あなたは、あなたで、それから、あの人は、ただの罪のない中年ですよ。それをちゃんと見ましょうよ。そのねじ曲がった、思春期の化石の薄暗い憧れみたいなやつ、私、嫌いじゃないけど、でももう、いいじゃないですか、あなたは誰の代わりでもないんです。あなたがあの人に成り代われなかったのは、とってもいいことなんです。