傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

その欠落を微分せよ

 彼はそのとき彼の欲していたものを理解した。彼は自分のからだがそれをうしなっていかに緊張していたかを感知した。肩こりが治りそうだと彼は思った。世界に生きた人間がいると定期的に言い聞かせてやらないとたぶん僕はだめなんだ。
 彼の結婚生活は六年で終わった。終わらないことが前提だったから長いとはいえないけれども、個人的には短いともいえない。だって六年だ、と彼は思った。けっこうなものじゃないか。彼は元妻と出した結論に納得していた。彼は傷ついていないのではなかった。でもそれはどうしようもないことだった。
 彼と親しく話す同僚のひとりが、私毎週泣く、泣くのが趣味なんだと言うので、昼食をともにしていた別の同僚が可笑しがって、そんなに泣くネタがあるのかと尋ねた。泣ける本とか?彼女はなぜだかいばってこたえた。私くらいの達人になるとね、そんなものいらないの。たとえば私が死んだらみんなが泣くなあって思うの。でも私はいつかぜったい死ぬ。私のために泣いちゃだめって思う。それでしくしく泣く。もちろん実際は誰も泣かなくてもぜんぜんかまわない。なにしろ死んでるんだから、私にはわかりっこない。そういう定番の泣きネタがいくつもある。
 マキノさんそれちょっと変態っぽいよと誰かが言い彼女はそうかなあみんなやればいいのになあとこたえた。彼はそれを思い出した。そんな愚かしい真似をする気はなかったけれども、自分の内面の欠落のようなものを把握し表出することはきっと正しいのだと、そう思った。離婚して内面が影響を受けないはずがない。僕はそれをキャッチし、それが息をつくための窓を与えてやらなければならない。それが正しい大人というものだ。僕の父親みたいに自分が把握していない感情は存在しないものとしてあつかうのではなく。
 彼はそのように考え、半年のあいだ、それを実行した。その結果彼は、友だちに話を聞いてもらい、一度だけ元妻にメールを送り、引越しをして、新しい靴を買い、新しい恋人はつくらず、長い時間眠った。悪くない、と彼は思った。でもまだなにかがある。こういうことは考えても無駄だと彼は自分に注意した。ただ見ていなくては。
 それは唐突にやってきた。友だちの家の小さな息子が彼にまとわりつき、彼は子どもを抱きあげた。そうして彼はそれを理解した。彼は生きている人間に長期間触れないことのダメージを深く被っていたのだった。彼自身に子はなかったし、彼は子そのものを欲していたのではなかった。彼はそのことをただの一秒で理解した。それから子どもをソファにおろしてやり、ありがとうな、と言った。

 そんなわけで非エロ的な接触が欠けていたことがわかった、と彼は言った。なるほどと私はこたえた。彼は私のばかな話がきっかけでそれがわかったのだと、深夜残業のあと帰り支度をしていた私に、わざわざ言いに来たのだった。皮膚いいよね皮膚と私は言った。ほかの欲と混同しがちだけど、実はわりと独立性の高い欲望だと思うよ、皮膚接触欲っていうか。触るのすごくいいよね。それがない人ももちろんいるけど。
 そう皮膚と彼はこたえた。離婚後の健全な生活を考えるにあたって真っ先に彼女つくるかって思ったんだけどちがうんだよね。無理してつくったらむしろまずそうな感じした。年とったなーって思った。でもさ、ふつう気づかないじゃん、ちょっと人に触らないのがそんなにからだに悪いなんて。
 悪いっすよと私の手伝いをしてくれていたアルバイトが話に入る。俺彼女と別れて半年くらいひとりでいたことあるんすけど、まあそれくらい平気だし、俺自立した個人だし、とか思ってて、そんで道端に猫がいたんでおお猫じゃねーかと思って抱きあげたら異常に満たされてびびった。
 動物で満たされる場合も多いねと私はこたえる。下手な人間はかえって毒になることもある。私、美容院のシャンプー台のところにやなかんじの見習いの人が入ってその人に頭さわられたくないからお店かえたことある。そりゃちょっとわがままだと彼はこたえ、いずれにせよ、と言う。いずれにせよ僕らにはその都度の欠落があって、それをたとえば「離婚してさみしい」みたいな大雑把なくくりだけでとらえるのはたぶんまちがっている。試薬を使って調べるのかもしれないし、主成分分析とか微分とかするのかもしれない、とにかくいろんな方法で、それをなるべく詳しく知る努力をしたほうがいいんだ。そうだねと私はこたえた。でないととても、からだに悪い。