擦過音に振りかえると私のデスクの後ろの棚が取り除かれていた。取り除いているのは総務の伊元さんだった。伊元さんは長身でしっかりとした骨格を持ち、ひと一倍の腕力があるように見えるけれども、棚にはまだものが入っているし、動かしているのがひとりなので少しあぶなっかしい。
私は立ち上がり、声かけてくださったらいいのにと言いながら棚の反対側を持つ。伊元さんはたいそう恐縮し、お礼を言い、棚を台車の上に載せた。ここ広くなりましたねと私が言うと、代わりのが来ますよと伊元さんは言う。
ほどなく「代わりの」が到着し、私は少しのあいだ口を利けない。だってそれはどう見ても大きすぎるからだ。伊元さんが位置を指示し、若い男性社員が二人でそれを据えた。片方の端は部屋の端とぴったり合い、もう片方の端は私の椅子の後ろにある。
椅子に座ってみてくださいと伊元さんが言う。私は彼に笑いかける。彼のことはよく知らない。私にジョークを言ってるんだと思う。そう思っているような笑顔をつくる。彼の口元はほほえむ。それは私の表情のようにあさましい意図を持っていない。そう見える。それはただある角度で吊られている。
私は軽く笑い声を立ててみせ、中腰になり、太腿を椅子のクッションと机の天板にはさむようにして着席した。私はそれらを冗談にするために両手を開いてかざし、にっこりと笑った。
入れますねと伊元さんは言った。ぎりぎり、と私は言った。ありがとうございましたと伊元さんは言って空っぽの台車に手をかけた。椅子が引けませんと私は大きい声で言った。困ります。それから立ち上がって抗議しようとした。足がもつれ、もう一度座った。痛かった。みっともなかった。
伊元さんは不思議そうな顔で私を見た。どうしましたと言いそうだった。どうしました、具合でも悪いんですか、槙野さん、
私はその瞳に悪意がまったくないことに気づいて動けなくなった。数秒の沈黙の後、後輩がよく通る声をあげた。なに考えてるんですか、この配置なんですか。後輩が目をぴかぴかさせて空を飛んできたスーパーマンみたいな顔をしているので私は可笑しくなった。まったくこの女の子ときたら、困っている人を助けていないと一秒だって息ができないんだから。
椅子が引けない状態にされて不愉快ですと私は言った。理由をご説明ください。伊元さんは少し困惑した顔になり、でも入れますよねと訊きかえした。座れますよね。
先輩が加勢した。これ、不愉快だと思いませんか。私は不愉快だと思う。伊元さんあなたご自分の席がこうなったらどう思いますか。伊元さんはますます困惑した顔で、加賀さんの許可は取っていますと、私の上長の名前を出す。
先輩は朗々と声を張り、ここは軍隊じゃないので、と宣言した。用途もわからないものを持ってきて誰かの椅子を引けなくすればこうして邪魔をされます。邪魔が嫌ならここにいる人間の合意をとってください。
加賀さんの許可はいただいていますと伊元さんは言う。先輩は見るからにいらいらした様子だった。じゃあ加賀さんを入れて話をします、私たちとは話ができないようですから。していますと伊元さんは小さい声で言う。
上長が遅い昼食から戻ってきた。私が先輩を押しのけて事態を説明すると、私の椅子を指さしてげらげら笑い、何これ、ギャグ、ギャグなの、と繰り返してから、醒めた顔で伊元さんを見て、駄目です、と言った。僕は支障がなければ置いていいよって言ったんだ、こういうのを支障って言うんだよ、覚えておくといいよ。伊元さんはさっと顔色を変えて事細かに詫びた。
若い社員と伊元さんが問題の棚を運びだすと、そこいらじゅうの人々がいっせいに話しだした。なんなのあれ。意味がわからないんですけど。他人の感情が理解できないとかそういう性質の人?でもあの人ふだんふつうだよね?
ふつうふつう、と突然上長が大きな声を出した。あの人はふつう。人間に対してはね。あの人の認知する人間は自分と関係ある人、いつも仕事で接点ある人とか。あとえらい人。自分の上司とか、役付の人間。残りはねえ、なんていうか背景。そして彼はえらい人の言うことをする、それが彼の仕事。
みんなが黙ると上長はため息をついて少し声を落とす。たいていの人が仕事で誰かにぶつかるよね、わかりやすく言うと営業には営業の正義、開発には開発の正義、企画には企画の正義、みたいなのがあるから。みんなそれを見て仕事してる、できればそれ以外も見てほしいけど、まあしょうがない。でもたまに営業とは営業部長のことであると思っている人がいる。そういう人が、ああいうことをするんだよ。