大きな駅から新幹線に乗り在来線に乗りもっと大きな駅の西側に出ると建物が急に大きくなって私は不安になる。見知ったはずの青梅街道が急に広くなる。空がとても遠い。私は巨大なビルディングのあいだを縫って無力なこびとのように走る。巨人の都市、と私は思う。ここはまるで巨人の住処だ。私は身長三十三センチ。巨人たちの夜は深い。冬の空は高く高く、巨人の家のはるか上に恵みのように小さい星を置く。星のサイズだけが私にとって正しい。私と同じ大きさの人が住んでいるのかもしれない。
待ち合わせの時間ぴったりに店に入ると羽鳥さんはもう来ていた。走らなくていいのにと言った。待たせるなんてたいしたことではないですよ。
たいしたことです、それに私は、走るのが好きです、ここは、ビルが大きくて、何もかもが大きいので、走っても走っても、ここに着かないように思えました。私はそう言って、そのまま音量だけを上げ、ビール、と言う。羽鳥さんは骨のかたちが透けて見える指を肩口にあげて、それがふたつであることを示す。
飲まないのにと言うと羽鳥さんはまじめな顔で、観賞用です、と言う。泡はきれいなので、僕は好きですと言う。金魚の入っている水槽に似ています、烏龍茶よりよほどいい。私たちはそれを掲げて高らかに打ち鳴らす。私たちのグラスの中の金の魚がふるえ、架空の尾鰭を一振りして消えた。
鞄が大きいですねと羽鳥さんが言うので、出張帰りですと私はこたえる。一泊なので普段づかいの鞄ですよ、でも着替えを詰めこんでいるから少しかさばる。遠いところからどうも、と羽鳥さんが言う。帰ってまいりましたと私はこたえる。すれっからしになっちゃって、新幹線が日常みたいで少しかなしいです。昔はあんなに遠くに行くのが好きで、新幹線のホームに立つだけでわくわくしてたのに。サイズ感が変わったんですねと羽鳥さんはこたえる。
おめでとうございますと言うと羽鳥さんもおめでとうございますと言う。私たちは同業で、別の職場に勤めている。今年のはじめに羽鳥さんが昇格し、つい最近、私も少し職位が上がった。生きていかれる、と羽鳥さんは言った。たぶん僕らは、生きていくことができます、この業界で、少し安心して、求められると思っていられる。そうですねと私はこたえた。
私たちがいるのは華やかな世界ではない。特別に待遇が良いのでもない。私たちはただその仕事のほとんどあらゆる側面を嫌いではなく、そうして、その一部をとても好きだった。なにより、自分たちに与えられる裁量を愛していた。それは私たちのてのひらにぴったりとおさまる大きさの、なめらかな感触をした自由だった。だから私と羽鳥さんはそれぞれ、その場所で生きていくためにひっそりと骨を折りつづけていた。そうして今の路線を走り続ければおそらく大丈夫だと判断した。今日はその祝杯なのだった。
求められるということばを羽鳥さんが口にしたことを、私はよく覚えていた。羽鳥さんはおよそそういう人じゃないからだ。でも羽鳥さんも私も、おそらくそれをずっと求めていた。あなたは役に立つ、あなたは必要だと言われたかった。敬意をもってそう言われたかった。代替可能な職業人であることと、それは矛盾しない。少し広めの等号記号で結んでもいい。
受動態の、と私が言うと、パッシヴ・ヴォイス、とわずかに語尾を上げて羽鳥さんが言う。肯定から離陸し疑問形に達しない上品な合いの手。私は目だけで頷いて続ける。受動態の欲望を、私は自分に禁じました。十五のときに。だって卑しいでしょう。他人が頼りのことでしょう。乞食のようなものでしょう。でもがまんできなかった。満たされてよかった。私の仕事が必要だと言ってもらえてよかった。
羽鳥さんは少しだけ重みを加えた頷きを返し、よかった、と言う。身長三十四センチの人のような声で言う。僕らが求められてよかった。それでお給料をもらって部屋を借りてごはんを食べて友だちとお祝いができてよかった。でも満たされない人のほうがえらくなるんでしょう、僕らはその足元を駆けて、ときどき踏み潰されたりする。
満たされない人、と言うと羽鳥さんは笑う。求められても褒められても足りない足りない人たちが、自分たちのサイズに合わせてこんな都市をつくったんですよ、この店の上にあるオフィスの上の階の絨毯敷きのセキュリティフロアの中にいる大企業の役員たちなんかがね。僕はそれは、いやじゃない、美しいと思います。
私は窓の外を見る。巨人の都市はかなしいほど幅のある道路をはさんで巨人用の窓を光らせ、その中でまだ働く巨人たちの影を映していた。