傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

インスタントな正義

 でも今まで問題はなかったんですよね、と伊元さんは言った。伊元さんはプリンタの前にいて、ふだん私の背後に座っている先輩と、それから修理に来た人がそこにいた。先輩がこたえた。プリンタのIPアドレスが浮動で取得されていると業者さんはおっしゃいました。つまり、プリンタがネットワークに接続するたびにIPアドレスが変更されるんです。するとIPアドレスを指定している社員はプリンタにつなげなくなるわけです。
 そこで伊元さんは言った。でも今まで問題なかったんですよね。今までは固定されていたのです、と先輩は辛抱強く言った。それがどういうわけか変更されていたのです。私には再設定の権限がないので、伊元さんからしかるべき部署に依頼していただかなきゃいけないんです。
 そういう変更をしていただいては困ります、と伊元さんは言う。先輩はもう一度、ごくゆっくりとこたえる。私がしたのではありません。このあたりの人間はその権限を持っていません。伊元さんはたずねる。印刷できなくなったのは昨日ですよね、何か変わったことをしませんでしたか。先輩はそれに答えずに一度天井を見て、それから修理の業者さんを見て、言う。プリンタ側でアドレスを固定することってできますか、そしたらユーザがその番号に変えればいいんですが。できますよと業者さんはこたえた。
 先輩は付箋にIPアドレスを書きつけ、これが新しい番号です、と言う。ここにいる人間には私から伝えますが、他所から使うこともあるので、メールを出していただけませんか。伊元さんはいささか迷惑そうに、わかりました、と言った。それで問題ないんですね。
 作業が完了し、私は先輩をねぎらった。伊元さんじゃなくて先輩が総務みたいでしたねえと言うと彼はまったくだよと言って笑った。業者さんとの会話があんまりちぐはぐだから割って入ったら、僕がプリンタを故障させた犯人みたいに言うんだもんなあ。先輩が正義だということを私たちは知っています、だからだいじょうぶです、と後輩が言い、私たちは笑う。正義は勝つ、と先輩は小さく言い、もっと小さくつぶやく。正義ねえ。
 数日後、先輩からプリンタのIPアドレス変更についてメールがまわった。少し変な気がした。これは伊元さんが出すべきメールじゃないんだろうか。軽く気になって、忘れて、そのまま半月を過ごし、自席にコンビニエンスストアの袋を置いた上長の顔を見て思い出した。加賀さんと呼びかけると彼はお弁当の蓋についているテープを注意深く剥がしながら、ほうい、とこたえた。お食事中に恐縮ですが、と続けると、許さん、と言う。槙野さんも食べるなら許すというので、私も朝に買っておいたサンドイッチをひらく。伊元さんのことなんですが。
 上長はペットボトルの黒烏龍茶を少し飲み、あのさあ僕がこんなもので痩せられると信じてるなんて思わないでよね、と弁解する。単に味が好きなんだ、ほんとに、まじで。私が笑ってわかりましたとこたえると彼は重々しくうなずく。それから軽々しく言う。伊元さんはねえ、忘れちゃったんだよ。
 IPアドレス変更のメールをですか。そう訊ねると彼はふにゃふにゃと笑って、プリンタの件、聞いたから、ぼく伊元さんの上司に告げ口して、それで彼、叱られたみたいだねえ、と言う。だからさ、きれいに忘れちゃった。
 私はそのことばを理解するより前になぜだかぞっとして、それからそっと質問する。忘れたんですか。忘れたんだねえ、と上長はこたえる。たぶん自分が間違っていたとわかったら、それを忘れるんだ、そういう人っているんだなって思った。ひどく叱られたのかなあって心配になって、プリンタの件ですが、って声かけたら、ぜんぜんわかんないんだ。なんか僕、なんにも言えなくってね、プリンタの件はうちからメールを出してもらった。
 かつ丼をむしゃむしゃ食べてから、忘れちゃったら悪くないね、と上長は言う。自分が悪かったこと、それも自分に理解しがたい内容で自分が悪いとされること、そういうのは、気分のいいものじゃない、内心での取り扱いがけっこうめんどくさいものだよ。でも僕らはしかたなくそれを取り扱う。そして正義ときどき悪、であるかのような自分をどうにかして作っている。でも伊元さんはたぶんそうじゃないんだ、伊元さんの正義はもっとインスタントなんだ、伊元さんはえらい人の言うことを聞いて自分が悪かったことは忘れる、だからいつも、正義なんだよ、それはとても、きっと簡単だよ。