入社二年目の社員に自作のマニュアルを渡したらひどく喜んで何度もお礼を言うので、私でなくって古賀さんに言ってくださいとこたえた。その人がこれ作ったんですかと訊くので、マニュアルを作ったんじゃないですけど、と私はこたえる。古賀さんは私がたとえば特定の業務に関するマニュアルを作って、必要なときにそれを誰かに手渡すみたいな、そういう習慣を作った。古賀さんと呼ぶのは人に言うときだけで、自分のなかでは、天使、と呼んでいる。古賀さんはひどく痩せて制服のような印象を与えるスーツを着ており、見たところ美しい部分はなく、今はおそらく五十に近いはずで、十年ほど前に部署を異動してから、姿をあまり見ていない。
入社まもないころ、アウトプットを渡すとしぶい顔をし、何度やり直して出しても了承してくれない上長があった。直すところを指示されて直すとそうでないところに修正が入る。何度かそれを繰りかえし、大量のため息を受け取り、結局、犬を追うように手を振られて、他の人に任せるからと、そう言われる。一連のその儀式が何度か繰り返されると、私はすっかりまいってしまって、何をどうしたらいいのか考えたあげくに、仕事が終わったあと、先輩の提出物を写経のように写しはじめた。
何をしていますかと古賀さんが訊くので書式を覚えようと思いましてと私はこたえる。夜もずいぶんと深くて、部署にはもう誰もいない。古賀さんは同じフロアの、近くの部署の人で、そのあたりにはまだいくらか、社員が残っているようだった。古賀さんは無遠慮に私のモニタを覗きこみ、私は反射的にからだを引く。それでできたスペースに古賀さんはさっさと手を伸ばし、マウスを操作して、私が使っていた書類をふたつとも見てしまう。ぱかりと口をあけてわずかに上を見て、それから右を見て、そうして口をひらく。マキノさん、無駄です。
無駄ですか。私がいささかしょんぼりして尋ねると、はい無駄ですと古賀さんは即答した。写してわかるようなことじゃないですと続け、それから私の出したものの何がいけないのかについて簡潔に話し、しかしそれは抽象的に圧縮された記述であって、具体的なことはあとで自分の書いたものをあげますと、そう言うのだった。件名なし、本文なしのその添付ファイルを見ると(だって仕事上のつながりが今ないんだから送信元の記載があれば用件はわかるでしょうと、古賀さんは言った)、あれこれ思いなやんでいたのがばかみたいに些細な慣習から、どこかにはきっと明示されているのであろう規則までが、きれいに並んでいた。
お礼を言いに行くと古賀さんははあ、と気の抜けた声を出した。顔はあんまり変わらないんだけれど、あきらかに機嫌が悪い口調だった。あんまり礼を言うことじゃないです、そのようすでは、それまでに相当無駄があったはずだ、今回はその後の無駄を省くことができたと思うので最悪ではないですが、しかし相当、無駄でした、非生産的でした、不合理でした。ごめんなさいと私が言うと古賀さんはものすごくびっくりして、今のはマキノさんが謝ることではないと、両手を振って言うのだった。だって、組織のリソースを無駄にしないのが組織の構成員にとっての合理というものでしょう。僕は、不合理が気持ち悪いので、どうしてもだめなので、見ているとほんとうにきついので、だから、それを減らしただけで、お礼とかほんとうに意味がわからないし、もうやめてください。
私はなんだかあきれてしまう。古賀さんは天使みたいだなあって思って来たのに、なんですか、合理的じゃないのが気持ち悪いって、ただそれだけだったんですか。やさしいから親切にしたとかじゃないんですか。はいと古賀さんは断定する。やさしい気持ちみたいなのはとくにないです。僕は学生時代、中国を旅行していて、歩道の真ん中に電信柱が立っているのに遭遇して、道もしくは電信柱をつくったやつがあまりに不合理なのにびっくりしてそれを受け入れられず、一時間ほど立ち尽くしたことがあります。病気ですねと私は言い、病気ですと古賀さんはこたえる。しかし天使というのはいいですね、天使は神の意思を実行する機能のようなもので、だからその文脈ではたいへん合理的なものだと聞いたことがあります。なんて無駄なことを知っている人だろうと私はもう一度あきれて、では、と言う。私、古賀さんのこと、天使と呼ぶことにします。なぜなら合理的だから。それから私、いつか、古賀さんのまねをします。合理的なおこないをします。それがたぶんお礼になると思うので。