傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

憎しみ鏡

私は彼を見る。ふつうの男の人、と思う。こぎれいで気が利くけれど、強烈な引力みたいなものはない。世の中にはびっくりするくらい頭が切れる人もいるし、からだつきや所作に色香のある人もいる。輝くように華やかな容姿の人や、仏像のモデルにしたいような端正な人もいる。でも彼らはそんなにばんばん浮気しない。少なくとも彼のようには。
どうしてかなと私は言う。彼は首をかしげる。そうして言う。僕の浮気には二つの要因がある。
まず、環境の要因。女の子がそこらへんにいる。同じ会社にもいるし、派遣さんも来るし、社外での仕事もある。出会いがないってせりふ、あれ僕よくわかんないんだよね。たくさん声をかけると中にはふたりで会ってくれる人もいる。だからついねえ。
私はあきれて口をはさむ。彼女がいるのにいないふりをするのは「つい」じゃないよ、だましてるようなものでしょう、それは。
彼は上体を倒して上目遣いをつくり、きまじめだなあと言う。だいたいそんなのあんまり訊かれないよ、決めてからどうこうってことなくない?
ないけどさあ、と私は言う。それにしたって親しくなって少ししたら「私たちは一対一ですよね」みたいな合意を形成するでしょう。そうでなかったら、これはそんなにシリアスな関係じゃないですよ、相互に常に他の選択肢を検討しているのです、という合意を。
彼は手をひらひら動かして私のせりふを遮る。そんなきちんとした生命体じゃないんだ、僕。相手が遠慮してるだけじゃないの、と私は訊く。私は二番目みたいだけど、それを追求して嫌われたくない、みたいな。彼は不意に外国語を、ある程度は知っているけれど自在に操ることはできない外国語を耳にしたような顔をして、それならそれでべつにいいじゃん、とこたえる。そういう人ならそのお言葉というかその沈黙に甘えるよ、僕は。だって相手だってそのほうがいいんだから、それこそ合意があるわけじゃない?
私は眉間に皺を立てて黙る。彼は椅子の背に頸椎をぜんぶつけて声にほどよい量の悪意をまぜこみ、対等になりたいんだね、と言う。あなたはシリアスな関係だろうとそうでなかろうと明示的な合意のもとに対等であるべきだと思っている。それが可能だと思っている。そんなのファンタジィの一種だよ。ブックオフで百円のワゴンに積まれてるようなやつ。
という考え方が、浮気の第二の要因なわけね。私がそう言うと彼はうなずく。対等なんて幻想だと思っている人間が、この人とはうまくいくんじゃないかという幻想を持つ相手を一定の期間のうちに見つける。見つけることができてしまう。そうして浮気者ができあがる。
あなたとつきあう女の人たちも私のような幻想を持っているのかな、と私は訊く。幻想の種類がちがうと彼はこたえる。あなたのは他者と対等になれるという幻想。彼女たちのは「この人と私は釣りあうんじゃないか」という幻想。
人間、見込みのないことはなかなかやりませんよ。彼はなぜかそこだけ敬語で言う。僕が新規案件を見つけられるのは、僕がふつうだからだよ。ふつうで、そして平均より少しだけ好ましいから。手の届く範囲でもっとも良いものを人は選ぼうとする。
彼は善良そうな顔だちをしている。彼はそれを率直な笑いのかたちに変えて話を続ける。実のところ僕は「二番目でもいい」なんて人にはお目にかかったことがない。彼女たちはただ関係性を曖昧にしたまま自分の都合の良い展開を願う。願うというより、そうなると思いこんでいる。どうしてそんなふうに思えるんだろう。ほかの女よりすぐれているところなんてないのに。
あのさ、もしかして、女、きらい?私が訊いてみると、彼はめっそうもないと言ってまた手をひらひら振る。女の子はみんな好きだよ、みんなっていうか、ちょっと年上からひとまわり年下までの三割くらいは好きになっちゃうね。私は少し思案してから説明する。
そういうことじゃなくって、自分が平凡だという客観的な認識とはべつに、特別でありたい、そうであるはずだという、理屈に合わないプライドというか期待感というか、そんなものがあるんだと思う、そしてその鏡のような女たちの平凡さを憎む。
彼は黙ってにやにやしている。私はかまわず続ける。あなたは女たちに笑いかける。女たちは自分と釣りあうと思って笑いかえす。あなたの客観的な認識は「やったね」と思う。でもあなたの隠された制御しがたいプライドみたいなものはその女の平凡さを許せない。
それって女を嫌いなんじゃないよ、と彼は言う。それはさ、自分を憎んでるってことだよ。