傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

talk to me,

 たのしそうに聞くねえと半ば呆れた声で彼女は言う。半ばでなくて完全にあきれた彼女の声が私は好きだから細心の注意をこめてばかの顔をつくる。それから、だってあなたの話はたのしい、と言う。完全なばかの声で。
 彼女はくいと首を反らして私の好きな顔をする。私はひとまず満足する。そうしてそこいらで摘んだみたいなミントの葉を山ほどつっこんでグラニュー糖の粒でもって乱雑にすりつぶしたほとんど下品なモヒートをのむ。彼女はこんな落ちのない話が好きだなんてあなたばかでしょうと言い、そうですと私は誇らしくこたえる。
 私は落ちとやらのない話が好きだ。遠くの箱からこぼれ落ちたように文脈に回収されない話、焦点や筋道や感情がうっすらと見えるような見えないような話、大切なのに不意に大切でない相手(私だ)の前でしっぽを出してしまった話、あるいは今日のお昼はカレーを食べましたみたいな話が好きだ。リハーサルされた話は好きじゃない。よく整えられた話には致命的に何かが欠けている。調整ほどつまらないものってなかなか見つからない。個人的な会話で出てくるとばかじゃないかと思うのが概要だ(ついでに職業上の文書に出てこないとばかじゃないかと思うのが概要だ)。同じアブストラクトでも抽象語彙はどんどん使ってくれてかまわない。
 夫が危険物になってしまったのと彼女はささやく。夫が、と私は鸚鵡返しを繰りかえす。ミントとお酒のにおいがして消毒薬と私は思う。消毒している、夏場は、なんでもすぐに腐るから。危険物、と彼女は注意深く発声する。あの人は私の安全な人だったのに、ちかごろ、どうしても、そうではないの。
 彼女と彼女の夫はずいぶんと仲のいい夫婦で、二十歳のころから一緒に住んでいた。彼女と彼は延々と語りあい何くれとなく笑いごく公平に生活の些事を分担した。彼らには正確な秤がそなえつけられているように見えた。安定し、判断力にすぐれ、ゆらりと揺れてもかならずある場所で静止する。
 携帯見ちゃってさあ、と彼女はつとめて、つとめているとわかる緊張をはらんだ声を発する。浮気浮気と私は尋ね彼女のより高度な軽蔑の所作をまねく。そんなものならいい、と彼女は語りを継ぐ。ゼロイチニイゼロの番号。
 彼が頻繁に利用していたのは家電製品のカスタマーサポートセンタの番号だった。彼女はそこに電話をかけ彼の行為を聞き出した。彼は脅迫にならないぎりぎりの物言いでオペレータをひとり退職に追いやっていた。クレームかあと私が言うと彼女はなぜだと思うと尋ねる。不満だからでしょうと私はこたえる。あんなに機嫌のいい人はどこかに不機嫌を捨ててるって私思ってた、だからあんまり意外じゃない。彼女はものすごく嫌な顔をしてそれを一瞬で格納し私どうしたらいいかなと質問を重ねた。
 私の友だちが、と私は話す。私生活ではとってもいい人なんだけど部下が育たないのね、厳しすぎて。彼はそれを自覚していて私たちの前で泣いたんだ、若い子につらくあたってしまうと言って。どうしてもそうしてしまうんだって。それだから私たちは彼を叱った、どうして私たちに話すの、まず奥さんでしょうって。
 その人、告白できた、と彼女はたずねる。私は首を横に振る。そんな卑しいこと好きな人に言えるはずないでしょう。私たちは奥さんに告げ口した。奥さんはやっぱり泣いて彼のつらいのを知らずにいて私はつらいと言ったよ。彼女はけっと口に出し、いい話、と吐き捨てる。教訓。伴侶とはすべてをわかちあうものである。私は笑って、伴侶のあるあなたのほうがない私より幻想を抱いていると指摘する。ばかだね。ねえあなたってとっても卑しいじゃない、夫のケータイ見ちゃうじゃない、不満もないのに見ちゃうじゃない、そんな卑しい人は彼の行為を責められないと思わない。ただそれを話せばいいんじゃない。
 彼女は醒めた目で私をながめる。私たちがたがいの卑しさをぶちまけあってだめになるのが楽しみなの。それもいい、と私はこたえる。あるいはそれをわかちあって抱きあって泣いて清らかになるのもいい。腐った根性だねと彼女は言う。他人事だと思って。
 もちろんそれは他人事だ。私はきっともう腐っている。内臓から腐っている。アルコールもハーブも他人に与える不快感をわずかに、そして一時的に減らす作用しか持たない。彼らが話をすればいいと私は思う。話をすることはしないことよりいつも上等だという信仰を私は持っている。その腐臭を私はまき散らしている。話をしてと私はねだる。あなたの話をして。あなたとあなたの夫の卑しさについて。たのしそうだねと彼女は、今度こそ完全にあきれて言う。