傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

プラスティックフィルムの仮面と散らかった目鼻

こんな美人が職場にいたら大変でしょうと、隣のテーブルの知らない男が言った。下卑た声だった。私たちはどちらからともなく黙ってそれぞれの手元のグラスを引き寄せた。その中身だけがこの世で唯一の自分たちの味方であるかのように。
うまくあしらう女の声と、それをまたうまくあしらう複数の声が聞こえて、それから、そうですねえ履歴書の写真みたときはそう思いましたねえと、ひときわ大きな別の男の声が耳に入ってきた。美人が来るんだと思ってうれしかったなあ、でもまああれですよね、しゃべっちゃうとこのひと美人が台無しだし、一緒に働いてたらどうでもよくなっちゃうじゃないですかそんなの。
私はほっと肩の力を抜いた。それから話題にされている女をちらりと盗み見た。痛々しいほど若くて、かなしいくらいきれいな顔立ちをした女だった。よく訓練された筋肉でもって目を三日月のかたちに整え、適切な角度で桜色のくちびるを引き上げていた。まぶたに比べたら口角の調整には労力を要さないだろうなと私は思った。顔面の随意筋をことごとく把握している人間はそうでない人間よりもたいてい幸福に見えない。
これはプラスティックの膜でできた仮面だ、おまえらこれでも貪って大喜びしてろ、くれてやるいくらでもくれてやる、意地汚くがつがつ食え、そしてくらげと間違ってゴミ袋を飲みこんだいるかのように窒息して死ね。そう言いたげな顔でその女は笑っていた。どうでもいいと言った、おそらく彼女の心情に配慮してそう言った気の利く男さえその若い女は許していなかった。その場に適応したというだけで、全部まとめて業火にくべてやりたいに違いなかった。きっと自分のことも。
私はいっそうさみしくなって、ことのほか強いお酒をたのんだ。私と一緒に聞き耳を立てていた彼女も同じような飲みものを注文した。隣の女は誰かの罪のない冗談に華やかな声で笑った。歌を聴きたいようなよく響く声だった。目の前の席に座っている彼女はふと握り拳をつくり、胸のすぐ下にあてた。そうして口をひらいた。隣のテーブルから、にぎやかに解散するざわめきが耳に届いた。彼女はそれを視界の端におさめたままで言う。
私は、あの人くらいの年ごろに、あの人のような顔立ちをうらやましくてならなかった、骨のかたちから違う、仮にばかみたいに稼いでたっぷり整形手術をほどこしても私はそういうふうになれない、私はその人たちが憎かった、そうして身を焼くように好きだった。私はでも、今はなんだか、昔と違うふうに、あの人たちを好き、あの美しい人たちを。だって美しいでしょう、美しさは私たちにこころよい気分を与えてくれるでしょう。
私は彼女を見つめる。彼女はひどくやさしく笑って、私みたいにあからさまに目鼻が散らかった顔をしているとね、と言う。散らかった顔をして牛のようなからだつきをしているとね、いろいろといやな目に遭う、とくに、少女のころは。私は黙って彼女の語りを聞く。
それを昔は、私が醜いせいだと思っていた。でも美しくてもいやな目には遭う、さっき隣にいた人みたいに。私は、もう少女でなくてよかった、若くなくなってよかった、顔が散らかっていても人生は楽しい、少なくとも私はさまざまな機会を得られたし、さまざまな感情をやりとりすることができた。今でもしている。
私が胸を突かれてものを言えないでいると彼女は少し笑って、あなたのような人には存外わからないかもねと言う。特段に美しくも醜くもなく、いちど目を閉じてまた開けばすっかり忘れてしまうような容姿の人には。
いいえと私はこたえる。まるで透明であるかのような外見をもってしても、外見のために苦しむ。あなたは凡庸ということに夢を見ているかもしれない、でもそれはただの夢だよ、覚えられないような顔をしていても外見のせいでいやな思いをしないということはない、それでも私たちはそれの呪縛から逃れて、こうして楽しく生きているんだよ。そのことを私は祝福したいよ。