槙野さんおでん食べない、と彼は言った。食べますと即答すると、彼は彼の同世代の部下にあたる社員の名前を挙げ、少し相談したいと言った。彼は目の高さでてのひらを斜めにしてそれを降ろすしぐさをしてみせながら、林原さんって、ほら、こういうところあるでしょう、と言った。ちょっと問題になりかかっていてね。林原さんのことはどうでもいいけどおでんのためならできるかぎりの話をします、と私はこたえた。日本酒もつけましょうと彼は言った。私はたいそう喜んだ。
私はにこにこして大根を食べ、がんもどきを食べ、卵を食べた。あと何か練りものをひとつと蛸とちくわぶを食べたいと私は思う。槙野さんって林原さんにはっきり言うよね、と彼は言う。半年くらい前だったかな、飲み会で、めっちゃ笑顔で、名前で呼ぶのやめてくださーい、って言ってたことあったよね。不愉快なんでー、返事しませんからー、って。
私はごくまじめに説明した。お酒の席じゃなくてもふつうに言いますよ、林原さんそれ不愉快です、って。えらい人からお酒の席でサヤカちゃんこっち、って手招きされたらセクハラセクハラとか思って録音しちゃうけど、立場が同等だし業務上のつながりも薄いし、その場で言えばいいやと思って。何回か不愉快ですって言ったら林原さんあんまり絡んでこないんで楽でいいです。
みんながそんなふうに言えるわけじゃないから、と彼は言う。管理職がいろいろ調べたうえで注意すべきなんだけど、注意のしかたが難しい。敬語じゃないからいけないかっていったら、たとえば僕だってこういうくだけた場所でだったら槙野さんに敬語じゃないわけじゃん。
私はちょっと呆れてこたえる。そんなのは、だって、それなりに仲が良いからですよ。私の側の敬語もかなり崩れてるし。つまり私たちはそういう間柄だってことです。いくぶん年下の側の私が職場の標準の四十パーセントの敬語でいいみたいな、よく話す同僚で、仕事の上でも頼りにしてて、信頼もしている。
どうもありがとうと彼は言って頭を下げた。私も頭を下げた。なんだか可笑しくて少し笑った。どうしてかなと彼は言った。どうして、仲よくもない女の子や若い人に、あんな態度でいられるのかな。社会人同士としての適切な態度を知らないわけじゃないんだ、林原さんは、僕には、礼儀正しい、どうしてそれができない相手がいるんだろう、だって年齢が違うだけだよ、でなければ性別が。
私はあきれて笑う。愚かですねと言う。年下と女はみんな自動的に自分の下だって思ってるんですよ、思うっていうか、牛肉は鶏肉より高く売れるというような、ただの事実として、認識している。役職だとか、わかりやすいラベルがついている対象には表向き丁寧にすることがある。でもそれはただの足し算なんです。マイナスを打ち消すプラスがあるからしかたなく丁寧にしてやるというだけの話です。そういうのをわからない愚かしさって、私は好きですよ。
彼は口ごもって鰯のつみれを取り、いいよこれ、生姜がきいてる、あと小骨が砕かれて入ってるみたい、と言う。私もそれを食べる。つなぎがいいんでしょうかねと言う。ほろっと崩れるかんじがいい。私たちはそれから目を合わせて少し笑う。
林原さんは鈴木さんに教わってないから、と彼は言う。私が首をかしげると彼は説明をはじめる。鈴木さんは僕が新卒で入ったときの上司で、みんな怖いおばさんだって言ってた。鈴木さんはすごく頭が良くて、ぶっちぎりに仕事ができて、僕なんかいっこもかなわないんだ。鈴木さんは歴然と女で、でも僕が好きになってつきあうような女の子たちじゃない、それから僕の母親にも似ていない、それで、女の人だった。
僕はたぶんそのときに女の人が自分とおんなじ人間だってことがわかったんだ、恋愛対象じゃない、母親みたいじゃない、女の人がいたから。鈴木さんは小さくて握力が弱いからときどきペットボトルのふたが開けられない。開けてと言うから僕は開けてあげる。鈴木さんはありがとうと言う。僕はそんなことにしか役に立たなかった。
私は林原さんを嫌いなので、彼の話を鼻で笑う。鈴木さんの下についたって、林原さんはあのばばあって言うだけです。絶対そうです。鈴木さんを人間だって理解する頭なんか、ない。私がそう吐きだすと彼はかなしそうに、そんなことはない、とつぶやく。それから申し訳ない、と言う。林原さんのせいでいやな思いをしているのに、そのうえ寛容さまで求めるなんてよくないね、ごめんなさい。私は彼がかわいそうになって、許してあげます、と言う。鈴木さんに免じて、許してあげます。