傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

模造された恋

 こいつ俺のこと好きだな。そう思っている男はどうしてこんなに苛立たしいのだろう。彼女はそのように思う。にっこりと笑う。男は彼女のその笑顔の二割引きの笑顔を寄越す。優越感。好かれているということがどうしてそんなにも彼らを得意にさせるのか彼女にはわからない。自分が相手に気があるとき以外、男たちから色めいた好意を向けられるのは薄い恐怖でしかなかった。
 なぜなら好意は欲望だからだ。それが言い過ぎだというなら、期待だからだ。なんの期待もない好意はない。とくに色恋沙汰については。身勝手で複雑で面倒な期待。好意は欲望だ。それは画一的ではない。純粋ではない。美しくもない。ほとんど醜いといっていい。それを向けられてどうしてこんなにのんきでいられるのか彼女にはわからない。明言されない好意を多くの男はちょっとした勲章のようにきっと思っている。職場の人妻にもてちゃってさあ、いや俺に嫁さんいるのは職場の連中みんな知ってるし、どうこうする気はないけどさあ、わかりやすいんだよねえ、彼女。目の前の男の場合、そんなところだ。彼女はそのように推定する。
 恋かあ。年末にいつも少し贅沢な食事をする古い友人にその男の話をすると友人は日なたの野良犬みたいな顔して笑った。恋はいいものです。どんどんすると良い。どうもしないと彼女はこたえた。私結婚してるし、夫のこと好きだし。そうかいと友人は言って泰然と肉を切っている。ごく弱い火を長時間かけて入れたとウェイターは説明していたけれど、ほとんど生肉にしか見えない。別に恋とかしてないのよと彼女は言う。その男には、と友人は続きをおぎなう。その男には、と彼女は繰りかえす。友人は質問を重ねる。じゃあ、誰に恋をしているの、この場合。旦那さんじゃないでしょ、その男への欲望を生み出しているのは。
 私はこの男に恋をしているのではない。年末の納会でふたつ隣に寄ってきた男を横目でとらえて彼女はもう一度思う。声を聞く。声がいちばん似ている、と思う。思考のパターンが似ているけれども、声と話しかたはそれよりもっと似ている。心臓が特有の動きをはじめる。恋とそれに準ずるなにかだけがオートマティックに発する音だ。いい年だからそんなものでいちいちうろたえやしないけれど、でも腹立たしくはある。その音が内部にあるとき彼女は自動的にひどく感じのいいほほえみを浮かべ、ふだんよりわずかだけ長く強い視線を相手に当てる。たとえ相手を、半ば軽蔑していたとしても。軽蔑と恋情は簡単に同居するし、意外と仲も良い。彼女はその男を手に入れたい、その男を隅から隅までひっかきまわしてやりたい、そうして自分もろともごみみたいにそこいらに放り捨ててしまいたい。
 でも私の記憶違いじゃなかったらその元彼とはどうあってもうまくいかない組み合わせだったじゃん。赤い肉の捕食を終えた友人が赤い葡萄酒を手にして言う。野蛮だと彼女は思う。この女は野蛮だ。他人の恋愛も家庭も過去のかなしい話もみんな、聞いておもしろければそれでいいのだ。彼女は苦笑して言う。だからよ。どうあってもうまくいかなかったような相手と似た男がまったく別の人間として目の前にいて、まだ何も起きていなくて、だからうまくいかない要因を回避するだけの猶予が与えられているような気になるのよ。そんなこと起きるはずがないし、もう一度あの人とつきあったってぜったいにうまくいかないし、そもそも目の前の男はあの人とは別の個体なのだし。けれどもそういう現実をきれいに無視して感情は訪れる。回収しきれずに置き去りにした感情はそうやって突然あらわれて私たちに復讐するんだと思う。
 そいつちょっとかわいそうだね。友人はひどくのんきで、完全に他人事の顔をしている。だってあなたの好意にひょいひょいつられてさ、いい気になって自分もちょっと好きみたいな気になったりして、でもほんとは知りもしない元彼に向けられた感情しかあなたにはないんだもの。いいのよと彼女は言う。どうせなにも起きないんだから。
 そうかな。友人は空を見てぽかんと口をあける。マキノ、口。注意すると閉じて彼女に視線を戻す。空想癖のある小学生みたいな女だと思う。よくもまあそれで社会生活が成り立つものだねと言ってやるとうれしそうにえへへと笑う。そうして告げる。人間はわりとすぐ他人と別の他人を混同するし、自分と過去の自分を混同するし、他人との境目もよくわかんなくなったりするから、あなたがその男に、あるいはその男があなたに、いつのまにかのめりこんでいたとしても、私はちいとも驚かないよ。