傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

脆弱と邪悪

繁華街を歩いていたら、尋常でない声が聞こえた。立ち止まると、五十がらみの男性がひとまわり年下の男性を怒鳴りつけていた。ふたりとも控えめなデザインの上等なビジネススーツに身をつつみ、きれいに磨いた靴をはいていた。そんな状況でなければ、いかにも良き社会人たちに見えたことだろう。
怒鳴っている年長の男性は目をつり上げ、首まで真っ赤に染まっていて、もとは端正だったと思われる顔立ちがときおり痙攣して崩れていた。怒鳴られている男性は顔が見えないほど頭を下げ、顔を上げてまた下げるのではなく、下げている位置からまた更に下げようとしているらしかった。
通行人が立ち止まって遠巻きに見ている中、怒鳴っている男性の台詞はしだいに単純化し、最後には聞きとりにくい発言の中に「私を否定したな」ということばが繰り返し出てくる状態に至った。そして彼は不意にからだの向きを変えてすたすたと歩きだし、私のすぐ横を通って雑踏の中に消えた。彼の目には彼らを取りまく人々などまったく映っていないようだった。私の耳元に彼の台詞が残った。私を否定したな。
その光景を目にしてからもう何年も経つのに、私はときどき彼のことを思い出す。彼がどういう人間で、どういう生活をいとなみ、どうしてあんなことをしたのか、その後どういう気持ちになったのか、繰り返し想像する。
抵抗も逃走もできない相手に怒鳴りつづけるというのはある種の暴力で、だからそれが公共の場で行使されたとき周囲に衝撃を与えるのは当然だけれども、でも彼が私の記憶に焼きついたのは、たぶんそれだけが原因ではない。そこにはむきだしの内臓を投げだしたような切実さがあった。
彼はなにかに飲みこまれているように見えた。彼は彼の暴力をコントロールできていないように見えた。彼はおそらく、強靱だから暴力をふるったのではない。強者の暴力はもっと周到で緻密だ。でなければ相手を支配することができない。
彼には脆弱なところがあり、その部分が不意に刺激されたことで、制御できないかたちで暴力をふるってしまったのではないか。私はそのように想像する。彼は「ある分野(おそらくは彼の職業の重要な部分)で、ある種の人に否定されることに耐えられない」という脆弱さを持っており、そのためにああいう振る舞いにおよんだのではないか。
暴力は人を酔わせる。脆弱な人間が暴力に飲みこまれたら、その動機の正当性とは無関係に、ただ邪悪なものとして遠ざけなければならない、と私は思う。
私はしばしば、なにが邪悪であるかについて考える。他者と共有するためでなく、自分にとって有効な定義を持つために。
なぜそんなことを考えるのかといえば、他者の邪悪なふるまいから身を守るためでももちろんあるけれど、それよりももっと重要な目的は、私自身のなかにある邪悪さをコントロールすることだ。私のなかにはおそらく、怒鳴っていた彼と同じ種類の邪悪さがある。脆弱さの種類は異なるにせよ、脆弱であるがために暴力を行使しかねない邪悪さ、暴力に酔ってエスカレートする邪悪さが。
やさしい人になりたいと思うとき、私はたとえばこんなふうに、邪悪なものごとについて考える。歯を磨いているあいだ、髪を洗っているあいだ、信号待ちをしているあいだ、食事のあとでぼんやりしているあいだなんかに。