お酒の席で人に対して大声を出したら罪かなと彼女は訊ねる。犯罪という意味ではきっとない。そう思って私はこたえる。迷惑だね、内容によっては暴力に近い。彼女は小さい声で話す。ねえ、場の空気を壊すのを恐れて無難にそれを見なかったことにするなんて、よくないことだよね、そんな空気、壊せばいい、私、最近そう思うんだ。だって怒鳴るようなやつは、ぜったいに相手を見てる、相手を見て、自分を怖がるにちがいないと思ってやってる、それはまちがいないんだ。そんなのを野放しにしておくほうが、場の空気を損ねることなんかよりよほどのこと問題じゃないか、空気なんか読んで、私はほんとにばかだったよ。私はだまったまま、目だけで彼女の話をうながす。
その男は彼女たちの勤務先の社員のために開かれた比較的大きなパーティの中央ちかい場所にいて機嫌良く話し、誰かの肩を叩いている。すんませんでしたっ!肩を叩かれた若者が大声で言い冗談めかしてがばりと頭を下げる。男は笑いさらに若者の肩をたたく。彼女はその男を一瞥する。声が大きくて上下関係に敏感で本来上下のない場にも上下をつくり下の者には常時うっすらと高圧的でときどきおそろしく抑圧的な、そういう男だった。幸い部署がちがうから、同期でもそんなに接点はない。彼女はだから彼のことをすっかり忘れていて、けれども、思い出した。そうだ、私はこの男が嫌いなのだった。
立食のテーブルのあいだを男は移動する。一度思い出すと彼女は彼が背後にいてもその動きを察知してしまう。嫌悪するものとしてサーチしてしまう。嫌悪?それだけじゃない、と彼女は思う。舌の付け根の裏にうっすらと苦味を感じる。嫌悪のなかに怯えが混じっている。危害を加える可能性のあるものに対する忌避感。入社当時に何があったのか詳しいことは実は覚えていない。ただ怒鳴られたことを覚えている。それに対してあなたは不当だと叫んだことも覚えている。でもあの男にとってはなんのダメージにもならなかったろうと彼女は思う。自分は怒鳴る側、強制する側、機嫌を取れと要求する側、あの男はおそらくそれが端的な事実だと思っているのだ。そういう人間にまっとうな批判をつきつけたってなにも感じない。ただ周囲に知られたら不利になる可能性が高いことは察知するだろう。ひと昔前のあのとき、反撃はできなかった。自衛しかできなかった。おそらくはそんなところだ、と彼女は思う。
男の方向から誰かがやってくる。さっきの若者だ、と彼女は思う。若者が彼女の名を口にし、彼女のレポートを読んだことを伝える。少し話をする。大きな声の塊が遠くから飛んでくる。いいぞ宮本、口説け!「宮本」の表情がすっと凍る。罰ゲーム的なあれだ、と彼女は思う。ひとまわり以上年かさの女の前にある若者を「口説け」と囃すことであの男は冗談の仮面の下に若い男をおとしめることができる。おとしめられているという意思表示はあらかじめ防止されている。彼女に失礼だという建前で彼はいくらでも若者を責めることができるだろう。ついでに彼女にも恥をかかせることができるとも考えているかもしれない。彼女はものの一秒でそのように思い、揶揄する男を笑顔で見据える。あなたは忘れたかもしれない、私は忘れていない、と心の中で呼びかける。やっだー、と彼女はことさらに大きな声で言う。私、大人の男性が好みなんですぅ、年上専門なのお、お子ちゃまはお呼びじゃないのお。それから「宮本」に向かってひらひらと手を振って追い返す仕草をつくる。誰かの笑い声が聞こえる。何かがどろりと胃の底に溜まり、彼女はため息をつく。
それはしんどいねえと私は感想を述べる。しんどかったねえと彼女はほほえむ。でもね、そのあと一時間もしないうちに、溜飲が下がったんだ。あの男、若い女の子に、痛いです、あと、嫌なんで触らないでください、って言われたの。お得意の肩たたきをしたみたいで、それで、言われたの、真顔ではっきりと。もう十何年前とは違うんだって思った。そこで彼女がとやかく言われるような会社じゃないんだ。ざまあみろだよ。でもね、私はちょっと、宮本くんに申し訳なかった。私は場の空気を壊さない冗談みたいなものであの男から逃げた。宮本くんを逃がすつもりでピエロみたいにあつかった。それは良くないことだったと思う、私もあの女の子みたいに、不愉快なんですけど、って、言ってやればよかったんだ。十何年前のできごとに起因する薄い怯えみたいなものは、ちゃんと自分で始末しておくべきだった。そしたら宮本くんだって、はっきり迷惑だって言えるかもしれないじゃないか。