傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

大伯母の淑子さんの話

 大正生まれのわたしの祖母は、零落した「いいおうち」のお嬢さんで、たいそうな美人であった。目鼻の配置がよく、皺の入り方が上品で、いつも姿勢がよかった。それでわたしは老婆にも美人がいることを子どものころから知っていた。

 その祖母は、自分より姉のほうがもっと美しかったと言っていた。近所の写真学校の学生が拝み倒して撮ったという写真が一枚だけ残っていた。一人暮らしの祖母の部屋の本棚の隅に、その写真はあった。わたしはその話を聞くまで、昔の映画スターか何かだと思っていた。彼女は若くして亡くなったのだと祖母は言っていた。若いうちに、結婚もせずに亡くなって、だから子どももいなかったのだそうだ。

 一方、祖母は祖父と結婚した。祖父は「山師」だったという。あやしげな商売でひと財産つくり、いいところの(しかし世の変化でカネは尽きていた)お嬢さんとの見合いにこぎつけた、という寸法だったようだ。成金だったその男を、祖母は嫌いではなかったという。男ぶりも威勢も悪くなかったらしい。しかしその威勢は長く保たなかった。商売に失敗したのである。

 祖父は荒れて暴力を振るうようになり、祖母は三行半をたたきつけて家を出た。当時の女としてはやたらと判断が早い。祖父は高等教育を受けておらず、女学校出の祖母を迎えてたいそう喜んでいたらしい。それから十年もしないうちにふられたのだから、自業自得とはいえ、あわれな男である。気落ちしたのかそのあと長く生きなかったらしい。離婚後、祖母は他家の住み込みの家政婦として生計を立てた。他家の子どもたちに行儀を仕込み、家庭教師のようなこともした。

 祖母は意思が強く聡明だった。だからわたしは祖母を好きだった。しかしその娘である母のことはぜんぜん好きになれなかった。母はとにかく無難であること、「普通」であることを志向する人であった。「当たり前」「常識」とよく口にするが、実はそれは世間の多数派という意味でさえない。何が現代の多数派かなんて彼女は把握していなかった。それが証拠に母は判断ということをまったくしなかった。ルーティン以外のことはぜんぶ「お父さんに聞きましょう」と言った。父の下女みたいにへこへこして、親戚が集まる場では顔に卑屈な愛想笑いをはりつけ、全員から顎で使われていた。そしてわたしにも同じように振る舞うよう言い聞かせた。

 わたしはそんなのまっぴらごめんだった。わたしは母を愛さず、母もまたわたしを「わたしの子じゃないみたい」と嫌った。だからわたしは生家から通える範囲の大学に進学したのに早々に家を出て、自分の好きな男と住み、その男と別れてまた別の男と住み、就職し、子どもを産み、その間ずっと母とは没交渉だった。わたしはぜったいに母のようにはなりたくなかった。わたしの夫はだから、わたしの母に会ったことがない。

 わたしの娘が十歳になったとき、うっすらと連絡をとっていた従姉妹から、祖母がいよいよ危ないという知らせが入った。教わった病院に行くと祖母はすっかり縮んでいた。わたしは自分の娘、祖母の曾孫をベッドサイドに連れて行って見せた。すると祖母はことのほか喜んだ。ああ、ああ、よかった、よかったわねえ、淑子ちゃん。

 わたしは「淑子ちゃん」ではない。「淑子ちゃん」は祖母のアパートの写真立ての中の、映画女優みたいな顔した祖母の姉である。わたしとはぜんぜん似ていない。祖母は言う。よかったわねえ、お嫁に行けてほんとうによかったわ、淑子ちゃん。

 祖母はもうすっかり認知症が進んで、わたしのことを若くして亡くなった姉とまちがっていたのだった。自分の姉が結婚して子どもをさずかったと思って、それで喜んでいたのだった。祖母は自分の意思で離婚し、その後も頑として再婚せず、孫であるわたしにはさんざん(年のわりに)リベラルなことを言っていた。そんな人でも記憶が混濁したら「お姉ちゃんがお嫁に行けてよかった」と泣くんだな、と思った。わたしはさみしかった。

 やがて祖母は亡くなった。わたしはあの本棚の写真を取ってきて祖母の棺に入れた。すると年老いた親戚が言った。この人、淑子さんでしょ、ものすごい美人だったのに、なにしろ気が強くて、家出して、ろくでもない男をわたり歩いて、あげくに死んじゃったのよ、自分で。

 自分で、とわたしは繰り返した。自分で、と親戚はささやいた。あの頃は珍しい女子大学生で、大学で男つかまえて、身を持ち崩したんですってよ。親戚はそれから、わたしの顔をつくづく見て、似てないねえ、とつぶやいた。でも、声はもう生き写しみたいにそっくりだわよ、あんたと。