傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしの妹

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしはその前から仕事の拠点を海外に置いていて、頻繁な帰国ができなくなった。そのためにこの三年ほどで妹との物理的な距離ができた。以前は何かというと会っていたのだ。
 そうして少々の客観性を持って眺めると、わたしの妹はなかなかたいしたやつだなと思う。

 わたしたち姉妹に対して、親戚は昔から(何ならわたしと妹が中年にさしかかった今でも)、口を揃えて「お姉ちゃんは気が強いのね」「お姉ちゃんを頼りにしてるのね」と言う。お姉ちゃんとはこの場合わたしのことである。妹がわたしのスカートの端を掴んでおさまった写真があって、それがおそらくは親戚のイメージする「あの姉妹」なのだった。
 当時、「気が強い」というのは女の子向けの語彙だった。たとえば物怖じしない態度、たとえばはっきりした言葉遣い、たとえば極端に良い成績、そういう「女の子らしからぬ」要素に対する、しばしば揶揄を含んだ語彙。
 妹は思春期のころ、何度か「わたしはお姉みたいに言いたいことがいつもあるわけじゃないから」とつぶやいていた。しかし妹はおとなしくはないし、強固な行動指針を持っているように見えた。「妹と比べたら、あれこれ目移りしていろんなものに影響を受けているわたしって『弱い』よな」と思わされるほどだった。
 わたしたちが子どもだったころ、母はわたしに明瞭な色を着せることを好んだ。両親はおしゃれが好きで、大人のシックな好みをそのまま子どもに適用するタイプだった。そのためにわたしの子供服は、たとえば真夜中みたいな色したシンプルなワンピースに赤の差し色を効かせて同系色の靴を合わせる、というようなものだった。「あんた昔からはっきりした顔だったから」と母は言うのだった。
 妹の服はそうではなかった。妹はよく淡い色の、わたしより子どもらしい感じの服を着ていた。妹自身の好みを母が察知したのかもしれないし、二人目の子だから親の主張も減ったのかもわからない。少なくともわたしたちの顔はそっくりで、わたしが妹より「はっきりした」造作とはいえない。

 妹はわたしが二歳のときに生まれた。妹はわたしにとって最初の「他者」だった。よくある話だが、世界の中心に幸福に座っていた長子は、次子の誕生によって「上の子」として扱われる。そうなるとがまんもするし、配慮もする。そして妹ははじめから他者を持っていた。「下の子」だからである。
 妹は早いうちからわたしがあまり熱心にやらないことに興味を持った。そしてわたしも気がつけば、熱心にすることは妹があまりやらないことなのだった。わたしは本を読み、妹は友人集団と外を駆けまわった。運動は妹のほうが断然得意で、だから体も妹のほうがずっと丈夫だった。そうして妹はふだんあれこれ主張しないぶん、いざというときには頑として意思を通した。
 そうやって思い返すと、どう考えても妹のほうが「強い」。なんかこう、存在として強い。そう思う。それでもわたしは今に至るまでずっと「気が強いお姉ちゃん」で、妹は庇護欲をかきたてるタイプなのだった。
 姉妹なのにこんなに違う、とは思わない。姉妹だからこんなに違うのだと思う。わたしが思うに、妹のさまざまな好みの出発点はおそらく「姉と違うから」で、わたしの諸々の好みには「妹と違うから」という根っこが生えている。

 妹は現在、三人の子どもを育てる主婦である。何度訪問しても子ども三人を適切に養育しながらハウスキーピングして地域活動もこなすなんて信じられない。わたしと交代したらわたしが五人必要である。わたしの夫など、初回の訪問後に「僕は掃除というものに対する認識をあらためた」と言っていた(でもまだ二人して雑な掃除してる)。
 妹の夫は大手の商社に勤めており、妹にベタ惚れで、妹を海外に帯同し、帰国してすぐ都内に家を建てた。友人にその話をすると「求められる系女子のグランドスラムじゃん」と言われた。わたしはそれを聞いてめちゃくちゃ笑った。愛され駐在妻、複数の優秀な子ども、都内の「いいところ」の持ち家、なるほどグランドスラムである。
 わたしがその話をして妹を褒めると、妹は独特の含みのあるほほえみを浮かべ、こたえた。お姉、そんなのちっともうらやましくはないでしょ。
 そう、わたしはそういうのはうらやましくはない。自分がそれを欲しくはないから。でもすごいと思う。たいしたやつだと思う。持っているエネルギーの総量がわたしよりはるかにでかいよなあと思う。
 お姉、と妹は言う。また来てねと言う。また来るねとわたしはこたえる。