傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

愛の永続性のなさに関する学習

 甥っ子が駆けよってくる。生まれたときから毎週のように面倒をみていた可愛い甥である。現在三歳半だ。わたしは両手をひろげてかがむ。いつものように。すると甥はフルスイングでわたしの頬を平手打ちした。それからわたしに抱きついて泣いた。

 なんだ、これは。

 甥はわたしにしがみついている。甥の母親であるわたしの姉が叱りつけてもろくに聞いていない。びっくりしていると、甥は突然、夢からさめたように泣き止み、ふいとわたしのそばを離れた。姉が急いで甥を追いかけてつかまえた。

 姉はとても正しい人間だ。わたしのような要領の良い人間から見るとときどき可哀想になるくらい、正しい人である。だから悪いことをした息子にあいまいな措置を講じることはない。子どもがわかろうがわかるまいが、低いフラットな声でひたすら理詰めにする。「何が悪かったか」「自分が悪かったと理解したか」「それに基づく謝罪をする気はあるか」という順番で詰める。甥はどちらかといえば泣き虫な子どもなのに、決してふたたび泣こうとしなかった。

 姉は、子どもがものをほしがったときなどには、「しかたないね、かわりにこれはどう?」などと交渉の余地を見せる。気まぐれにぐずってみせたときにも、「はいはい、だっこはちょっとだけだよ、もう重たいんだから」といった調子だ。ふだんはそんなに厳しい親ではない。子どもの理不尽さをほどよく容認しているように見える。しかし、子どもが他人に暴力的なふるまいをしたときなどは、確実に根負けしない。

 このたびは姉だけでなく、甥も根負けしなかった。姉は説明を終えて甥をじっと見ていた。甥はうつむいて動かなかった。だからわたしもしかたなく座っていた。二十分が経過すると、姉は甥を抱き上げ、子ども部屋(といってもリビングから薄い引き戸で仕切られているだけで、端をあけておけば中が見える)に運び、「ひとりでゆっくり考えなさい」と言った。

 姉とふたりでお茶を飲んで小一時間、甥がわたしに謝りに来た。しかし、彼は非常に不満げな表情をしていた。わたしは彼にたずねた。おこってないよ。でも、どうしてぶったの。彼はこたえない。わたしを意図的に無視している。

 姉は私に向かって、ごめんね、と言い、それから、あんなのどこで覚えてきたんだ、とこぼした。うちでは平手打ちが出てくるようなドラマを見せた覚えはない。保育園で見せるコンテンツにもないと思うんだけどなあ。平手打ちしたあと抱きついて泣くって、どこのB級恋愛ドラマだよ。まったく。

 それで、彼は何に怒っていたの。わたしが訊くと姉は気まずそうに、あんた結婚してからうちに来るのはじめてでしょ、と言った。手続きだの結婚式だの引っ越しだので忙しかったから。あの子が生まれてから、二ヶ月もうちに来なかったこと、今までなかったでしょ。あの子はだから、それを怒っていたんだよ。ほんとごめん。

 わたしは驚いた。わたしはたしかに甥にとって重要な人物だと思う。両親と保育園の先生に次ぐ第四の育児担当者といってもかまわない。それにしたって、たった三歳半の子どもが、そんなにも複雑な怒り方をするものだろうか。それに二ヶ月ずっと会っていなかったわけじゃないのだ。甥はわたしの結婚披露宴にも列席したし、わたしのウェディングドレス姿を見て「かわいい」と喜んでいたし、わたしの夫と三人で写真だって撮った。披露宴の途中でぐずったので姉が連れ出していたけれど、三歳半の子どもが儀式的な場に飽きるのは当たり前のことなので、わたしは気にしていなかった。

 あんたには悪かったけど、と姉は言った。なんていうか、愛の永続性みたいなものを期待する気持ちは、幼児にもあるってことだよ。毎週来てくれていた人はこれからも毎週来続けてくれなければいやだというような、そういう感情。親の愛でさえもらえないケースもあるし、あったとしても永続的ではない。そういう事実を、そのうちあの子も知るでしょう。でもまだ知らなかった。あの子はまだうんと小さいのだから、好きな人たちがずっと変わらずに愛してくれると思っていても、よかったんだよ。

 でも大好きな叔母さんが結婚して、自分を二ヶ月放っておいた。それを彼は受け入れなくちゃいけない。少し早かったかもしれないけど、でも彼は理解しなくちゃいけない。愛の永続性のなさを。愛は、努力して獲得して努力して保って、それでも継続が保証されるものではないことを。そして途切れて見えなくなったとしても続く愛があるってことを。