傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

不在の男

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために去年は盆も正月も帰省しなかった。しかし今年は疫病の流行がひとまずの落ち着きを見せた。わたしは生家の近隣の人々の意向を親に尋ね、まあよさそうだということで帰省することにした。
 そうすると旧友とも会う。どこで会おうかと訊くと彼女は繁華街の名を挙げ、今ここのホテルに泊まっているから近くだと嬉しいなと言った。
 ホテル?

 実家でなんかあったのと訊くと彼女はすごく変な顔をして「父親が帰ってきた」と言う。わたしの知るかぎり昔から(わたしは中学校で彼女と親しくなった)彼女の実家は母子家庭である。
 いや実質的にそうなのよ、と彼女は言う。父親は家にいなかったのよ。だからうちは母子家庭だと思ってたの。父親は「お正月とかにおばあちゃんのところに行くといる人」だったわけ。おじいちゃんはだいぶ前に亡くなっててさ、父親と祖母が二人暮らしで、なんていうか「準おじいちゃん」くらいの感覚でいたわけ。県内だから年に二回は会ってた記憶がある。父親らしいところがないし、あんまりしゃべらない人だったから、「おばあちゃんのところにいる人」だと思ってた。父親らしさって、正直わかんないんだけどね、まあ何かするんでしょう、親なんだし、家族なんだからさ。でもうちにはそういう男親はいないわけよ。
 父親に会ったことは何度もあるんだけど、しゃべらないから何考えてるかわからなかった。わたしが子どもだったころ、おばあちゃんの家に行くと、おばあちゃんがせっせとわたしたちの応対をしてくれるのね。嫁姑という感じもなかった。母親もなんだかしんとしていて、よその家に来た人って感じでね。父親はなんだかつまらなそうにしていた。
 だからねえ、父親は正直「よく知らないおじさん」なのよ。母親と籍が抜けてないなんて三日前に知ったわよ。もうびっくり。夫婦の実態なんかないのよ。

 わたしは妙な気分になった。離婚してわだかまりがあった父親に会ったら複雑な気持ちにもなると想像するが、彼女の場合はわだかまりすらない。なにしろ「よく知らないおじさん」である。家庭の解散にともなう愛憎劇みたいなものはいっこもない。ないのに帰省したら生家にそのおじさんがいるのだ。そしてその人は戸籍上も生物学上も彼女の「父親」なのだ。そりゃあ生家にいたくなくてホテルに泊まるだろう。

 旧友は言う。父親がろくでもない人間で母親にカネをせびったり暴力をふるったりしたならまだ話はわかりやすいんだけどさ、それもないからね。ほんとうにゼロ。無の人。
 もちろん母親を問い詰めたよ。なんであの人が家にいるのって。そしたら母親はこう言うのよ。「どうも実家の居心地が悪くなったみたいで」って。
 なんだよ居心地が悪くなったって。
 祖母はまだ生きてるのよ。ものすごい高齢で、年のわりに元気だったけど、とうとう去年施設に入ったのよ。あのね、もしかして、わたしの父親は、ずっと祖母に生活の面倒を見てもらってたんじゃないかって、そう思うの。出て行った理由も同じようなものなのかもしれないと思うの。働いてはいても、働く以外のことを何もしていなかったのかもしれないって。

 わたしはぞっとした。彼女もなんともいえない顔でうなずいた。
 子どもが生まれて「居心地が悪くなって」家を出て行く。
 高齢の母親が施設に入って「居心地が悪くなって」家を出て妻のもとに戻る。子どもはもう子どもでなくなって東京で働いている。それなら「居心地が悪く」はない。

 彼女は言う。なんとも形容しがたい表情で言う。わたしの母親は、出て行った夫を追いかけて問い詰めるタイプじゃなくて、出て行った夫の籍を抜くためにぐいぐい動くタイプじゃなくて、だからうちはほんとうは母子家庭じゃなかったんだよ。そして母親は戸籍上夫である人間を追い出すパワーもたぶんない。そういう人なの。なんていうか「女らしい」人なの。家に誰かいたらその人のぶんのごはん作ると思うよ、掃除も洗濯もすると思うよ、あの人そういうタイプなの。

 わたしはなんとも感想を返すことができなかった。彼女もくたびれた顔をするばかりだった。わたしは空恐ろしくなった。彼女は彼女の父親をとがめないだろう。とがめるような労力をかけるだけの関係がそこにないから。彼女はただ自分の今の家に帰るだろう。そして彼女の生家には、父親と母親がそのまま同居して、不在の二十数年をなかったことにするのだろう。