傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

アレルギーかもしれないので

 乾燥ですね。医師はそう言い、わたしは、はあ、とはい、の中間くらいの声を出す。それから尋ねる。病気じゃあないでしょうか。アレルギーとか。アレルギーはありえます、と医師は言う。とくに、職場や住居など、よく身を置く環境が変わって皮膚にこういう、乾燥性の疾患が出る方はいます。はあ、とわたしは言う。医師はそれをイエスと取り、淡々と説明を繰り出す。あなたの場合、ハウスダストの数値もそこそこ高いですからね。新しい環境の塵、埃、肌につくものに注意してください。保湿剤を出しておきます。

 まあねえ、と医師はつぶやいた。こういうのは、確定はあまりしませんよ。ご本人もひどくならなければ深く追求しない。保湿しておけばとりあえずマシになる。服に隠れて見えない場所だとみなさん「とりあえずようすを見ます」で済ませちゃいます。ええ、それでいいんです。はい、おだいじに。

 彼はその話を聞き、薬、塗ってあげようか、と言う。わたしは笑って断る。いいよ、お母さんじゃあるまいし。あなたのお母さんをやった覚えはないけどなあ、と彼は言い、わたしのグラスに水を足す。ほら、とわたしは思う。この男は、人が水を飲むタイミングまで、ほとんど無意識にはかっている。

 お母さん、というのは、わたしが意識的についた嘘のような比喩だ。この男の世話焼きは親の子に対するようなものではない。もっとよくないものだ。彼は自分と居るときに相手が不快に感じること、不便に感じることをスキャンし、ひとつひとつを丁寧に取り除く。空腹。寒さ。のどの乾き。言われたくないせりふ。不快に感じる音。

 やさしいからそうするのではない。この男は餌づけをしているのだ。わたしは知っている。そうやってゆっくりと手なづけた女がいつのまにか自分を必需品にすることが、この男の趣味だということを。自分に会えないと泣いて悲しむ女をどれだけ増やせるか。気が向いたときに呼ぶ相手をどれだけ快適に取り替えることができるか。それがこの男にとって、精神の安寧にかかわる重要な事項だということを。

 この男は「誰かに必要とされなければならない」と、脅迫的に思っている。仕事だけではだめだ。プライベートで、女から必要とされなければ。

 彼は数年前、当時の妻の側からの希望で離婚している。それは彼にとって許せないことだった。信じられないことだった。だから今、彼は女に必要とされなければならない。何度も何度も必要とされなければならない。いつも自分が捨てる側でいなければならない。そのために彼は女たちを湯水のように甘やかす。邪魔にならない程度に自立していて、話が退屈でない程度の気概があり、しかし内面の依存心を引きずりだせそうな女が、彼の好みだ。そういう女に快適さを与え、いい気分にさせ、ほどよいところで取り替える。

 わたしはそれらの事実を、彼と知りあって最初の三ヶ月で理解した。SNSで連絡をとってきた別の女にも会った。彼女は泣いていた。わたしはこの男のことで泣いたことはない。映画を観て泣くことはあっても、この男のために泣くつもりはない。

 わたしはほかの女たちとは違うのだと思っていた。わたしだけがこの男の正体を知っているのだと思っていた。この男の裏をかいて苦痛を与えられることなく楽しみだけを享受しているのだと思っていた。わたしだけがこの男の薄汚く弱い精神の構造を把握しているのだと思っていた。その優越感はとても、いいものだった。とても気持ちがよかった。だから半年も続けた。

 アレルギーってね、とわたしは言う。原因になる物質の摂取が積み重なって発症するんだって。その量は人によってちがうの。わたし、きっとなにかを摂取しすぎたんだと思うの。なんだろうね。

 彼は家を見渡す。塵や埃は彼の留守の間にロボット掃除機が吸いこみ、空気清浄機によって除去されている。わたしはにっこり笑い、彼の額にくちづける。それから言う。コンビニ行ってくる。

 コンビニエンスストアを通りすぎ、駅に着く。もともとあの男の家にはなにも置いていない。置くとほかの女が来たときに隠すのがたいへんだろうと思って気を遣ってあげたのだ。わたしもそれなりに彼を甘やかしていたのだ。そうして少しずつ、塵や埃のような何かを吸いつづけた。たぶん。

 ホームで電車を待ちながら彼のすべての連絡先を拒絶する設定をする。終電が近く、人々は華やいで、どこか倦んでいる。今このタイミングで彼とのかかわりをなくすつもりはなかった。けれども、玄関を出たその瞬間に「帰ろう」と思った。そうして駅に着いたころには二度と会う気がなくなっていた。