一度言ってみたいせりふがある。
「自分しかいないと作る気になれない」である。
料理は愛情、などという妄言を支持したことは一度もない。子どものころから、バカがバカなことを言っている、と思っていた。料理屋の仕事は愛することではない。料理を出すことだ。愛情は愛情、料理は料理である。本気でそんなこと言うやつは料理のことも愛情のことも何ひとつわかっていないのだ。不幸なことである。おおかた、家庭料理に変な夢を見ているんでしょうね。けっ。
それはそれとして、美味しいものを食べることは多くの人が享受する幸福のひとつである。その幸福が時に愛の契機になることもあるだろう。わたしなど、気に入りの食べもの屋の店長や板さんやシェフに対し、軽率に「好き!!!」と思う。別につきあうとかじゃ全然ないですけども。愛というのは幅広いものですね。
わたしは素人ながらにけっこう料理をする。「料理は愛情」では絶対にないが、愛情のある相手に提供するのはやぶさかでない。家族の晩ごはんは週四でわたしが作っているし(毎日はやらない。自分の作ったんじゃないものも食べたいし残業とかするし)、帰省したら一度は両親に食事を作るのが習慣になっている。友人たちを招いてのホームパーティも好きだ。
そのようにわたしの料理の腕前は多くの人々を相手に発揮されているが、その第一の対象は、もちろんわたしである。
そりゃそうだ。わたしの好みや体調や気分をいちばん把握しているのはわたしなのだから、当たり前である。
ぱぱっと作る晩ごはんも、わたしがその日に食べたいと思ったものが中心だ。子どもたちが幼児のころは辛いものや渋すぎるものについては代替を用意していたが、両親がうまいうまいと食べているので興味を示してほぼ何でも食べるようになり、早々に代替を準備する手間から解放された。親孝行なやつらめ。
それから、わたしは年に一度か二度、自分をもてなす会を開いている。大学生のときからの習慣である。若いころは週末にしていた。今はそのために有休を取っておこなう。朝から電車に乗って気に入りの大きな専門スーパーに行き、午前中いっぱいかけて自分のためだけにフルコースを作り、お酒のペアリングもして、昼下がりからひとりで堪能するのだ。最高である。
ちなみにわたしの家では、ホームパーティとわたしのひとりパーティをさして「パ」と呼ぶ。パのあとの数日は晩ごはんにパの残りが加わるので、みんなちょっと楽しみにしている。
さて、先日、少し年上の友人が長い休暇を取った。早くに配偶者を亡くし、仕事をしながら四六時中走り回って二人の子どもを育てあげ、いったん休みたくなったのだそうだ。旅行でもするのかと思ったらどこにも行かずに家にいると言うので少し心配になって様子を見に行った。
そうしたらリビングの隅に段ボールがあって、何かと訊けばカップうどんだと言う。いま晩ごはんはだいたいこれなんだあ、と言う。見れば素うどんである。
わたしは驚愕した。子育ての忙しい時期に重宝するレシピをたくさん教えてくれた彼女が、ブリくらいまでなら捌ける彼女が、春になったら山菜の煮物をお裾分けしてくれた彼女が、素うどん。エブリデイ素うどん。
いや素うどんは何も悪かないですが、えっと、インスタント食品を箱買いするなら、何種類かあったほうがよかないですか。飽きるでしょ。
よかないよお、と彼女は言う。選ぶのめんどくさいもん。昼は近所の定食屋で日替わりを食べてるから栄養は大丈夫だよお。
自分ひとりだと、何も作る気にならないじゃんねえ。
わたしは言葉に詰まり、それから言った。あの、わたし、自分ひとりのために料理してます。家族にはそのついでに作ってるって思ってました。子どもが小さいときは別ですけど、あとは自分が食べたいものを作ってました。自分ひとりのために気合い入れて料理するの、すごい楽しみにしてます。そこまではしなくても、あの、だいたいの人は、第一に自分のために料理してるって思ってた。
友人はにこりと笑って、言った。それは幸福なことだね。素晴らしいと思うよ。そして珍しいと思うよ。
友人は褒めてくれたが、わたしは、少し恥ずかしい。薄々気づいてはいたが、食いしん坊が度を超している。あと、なんていうか、こう、繊細さに欠けるっていうか、ちょっとデリカシーが足りない感じしませんか。原始的っていうか。
そんなだから、わたしも一度くらい、「自分だけだと料理する気になれないな」とか言ってみたい。