傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

「男」と孤独とアルコール

 会議中に倒れて「死んでもおかしくなかった」という上司が早々に酒を飲みはじめたので、わたしたち部下は困惑し、隣の部署の課長に時間をもらった。この人は上司の同期で近しい間柄だと聞いている。
 あの人が飲みに行くぞって言うたびにハラハラするんで。一緒に来た後輩が口火を切る。でも自分らは止める立場にないし、少なくとも俺は、面倒ごとはいやだっていう気持ちが先に来ちゃうし、キャバクラのお姉さんにお茶出してもらうくらいしか思いつかなくて、正面切って酒のまないでくださいよって言う気はなくて、とはいえ心配は心配なんです。
 後輩は正直な青年なのである。
 あの人はあなたがたより年長で上司なのに、心配かけてすまないね。隣の課長はそのように言う。彼は件の上司と同じポジションだが、印象はずいぶんちがう。わたしたちの上司と比べるとテンションが低く、いつも落ち着いていて、わたしとしては構えずに話せる相手である。だからこうしたなんともいえない話の持って行き先に選んだのだ。
 あなたがたが困っているように、ことは個人の選択の問題なので、会社としても禁止はできないでしょう。彼は静かに話す。あの人の性格上いちばん効きそうなのはもっと上の人に釘を刺してもらうことかな。僕から言っておきましょうか。
 わたしたちがほっと息を吐いた、その息の半ばほどで、彼はつぶやいた。いやだけど。

 彼は右の口の端でわずかに笑う。嘲笑に見えた。わたしはひやりとした。
 彼は表情を社会人らしいほほえみに修正し、口をひらく。ごめんね、僕はあの人が嫌いなんだ。

 ひと昔前、男同士のつきあいというのは断りにくいものだった。あの人はとくに強引だし、そういうのが大好きだから、余計に。僕はあの人の部下じゃなかったけど、上を巻き込んでのつきあいを半ば強制されていた。僕もいけなかったんだと思う。もっとはっきり断るんだった。
 今でもあの人、若い人をつきあわせているんでしょう。ああ、もしキャバクラを奢られるのが好きだったらごめんね。そうか、別に好きではない。なるほど知らん女の人と話すのめんどくさい。うん、わかるわかる、ぜんぜん楽しくないよな。そうそう、眠いもんな。うまいこと断って適当に帰ったりしてるのか、それは素晴らしい。
 僕は八割がた断れなかった。
 今はないかもしれないけど、僕らが若かったころには、風俗めいたところにつきあわされたりもした。別々にサービスを受けるガチ風俗だと僕はかえって気楽でね、料金だけ払ってサービスする人には適当にしていてもらって、合流したあとで嘘をつけばいいから。
 いちばん苦痛だったのは同じ席で女の子がべたべた触ってくるところ。僕にとっては「知らん人」に触られるのは気持ち悪いことだよ。普通に。

 セクハラじゃないですかとわたしは言う。キャバクラに連行される部下もセクハラに遭ってるというのがわたしの認識なんですけど、それよりストレートにダメ、斜めにしても逆さにしてもアウトじゃないですか。
 そうだねと彼は言う。僕もそう思う。でも八割がた逃げられなかった。そういう社会でそういう会社だったとも言えるし、僕の能力や志や度胸が足りなかったともいえる。
 だからあの人のこと嫌いなんですねとわたしは言う。彼はうっそりとほほえむ。あの人が身体壊してるのに無茶な飲み方して死んじゃったらすっきりしますか。そう思う。でも言えない。
 彼は言う。僕はそうした過去を、恨んでいるんだと思う。そのときはたいしたことじゃないと思ってた。でも僕は間違っていた。だから僕は過去の自分を恨んでいるんだと思う。
 あの人は不安なんだと思う。他人の顔色に敏感で、僕みたいな弱腰の、権力も何もない同期にさえ、豪快なそぶりをしながら、あれこれ気を回すところがあった。それにすごくさみしがりやだ。仲間が欲しいんだ。そしてあの人にとって、「他人」も「仲間」も全員男なんだ、ナチュラルに、自覚もなしに。
 それがわかったから、僕は三十代はじめに、キャバクラ風俗よけの呪文を編みだした。ーー俺はいいバーでおまえとゆっくり話したいんだよ。たまには、男同士でさ。女房も女の子もいないところで。
 彼はもう嘲笑を隠さなかった。
 僕は彼にとって、「女房の尻に敷かれて子どものために節約してろくに飲みにも行けなくて、たまに男同士の話をしたがる同期」になった。僕の妻は飲みに行くななんて一度も言ったことはない、もちろん。
 あの人のことはちゃんと上の人に言っておきます、と彼は約束してくれた。

 後輩とふたりで帰り道を歩く。わたしは小さい声で言う。あの人、友だち、いないのかもしれないね。