傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

恋はごみ箱

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしたちの身辺から恋の芽が完璧に摘まれた。摘まれ尽くした。ぺんぺん草も生えやしない。

 恋はこのような世界にも存在する。なんなら燃え上がっている。わたしもそのような話をたくさん聞いている。しかしそれらの種は疫病の前に蒔かれ、疫病の前に息づいていたものである。恋はだいぶん原始的なものだから、フィジカルな接触が禁じられた疫病以降の世界では難産になるのだろう。
 もちろん恋はプラトニックなものでもある。精神的な活動のみで完結しうるものでもある。しかしそれは相互作用をもたらさない。しばしば一方的に誰かを「応援する」「奉仕する」というようなものだ。わたしはそういうものを好きではないが、世界はそれをも恋と呼ぶので、だから疫病下の世界でも恋は発生しているのだ。たとえばガラスとアルミニウムの小さく薄く四角なデバイスを通して。
 しかしそこには相互性はない。相互性のない恋はきっと存在するのだろう。しかしわたしは片恋というものを経験したことが一度もなく、だからそれを理解することができない。貧しいことである。わたしが他者を恋するとき、その他者はすでにわたしと(たとえば友人であるというような)何らかの個人的な関係があり、そのうえで「わたしはあなたに独占欲をともなう恋をしており、あなたもわたしにそのような恋をしていたらわたしは幸福なのだが、どうだろうか」とわたしがオファーする(あるいはされる)、それだけがわたしの恋だった。

 わたしの思う恋は相互に身体としての存在と大量の言語をやりとりするものだ。相互性なしの恋が想像できないのと同時に、言語のやりとりなしの恋もまたわたしにはわからない。ことばを通じて他者に触れ、そこに相互に固有であることの合意が発生するのがわたしの思うところの「恋の成就」である。
 自分を偏っていると思わないこともない。片恋がわからないなんて貧しいことである。人類はすでに、描かれた絵にも恋をしている。存在するが決して会えない人にも恋をしている。集会で宗教の教祖さまにひれ伏すのも、たぶん恋のようなものである。それらのすべてを理解しないわたしはきっと感情的な貧民なのである。

 いずれにしてもわたしたちは恋をする。わたしの理解するたぐいの恋は疫病下でその発生が抑制されている。すでに発生していた恋は燃え上がっている。そうでない恋についてはどうだろうか。人々の見解を聞きたいものである。もしかするとより盛んになっているかもしれない。
 というのも、わたしたちは名付けえない感情を持て余しているのだ。別の誰かへの執着、すでにない者への執着、皮膚や体温への執着、復讐心のようなもの、恩を返したいという欲求のようなもの、ただ誰かにやさしくして慰撫してやりたいと思う欲求、その他、わたしの知らない感情たち。
 それらをすべてぶちこんでも咎を受けないのは恋と呼ばれる箱だけである。

 わたしたちは恋と名付けた対象に自分の名づけていない感情や解釈しがたい執着をぜんぶぶちこめる。しかも箱の表面は幻想を映すスクリーンになっていて、だからやたらと美しい。 幻想の寿命は短い。投影された端から死ぬ。だから恋はすぐに腐敗する。そんなこと十代に知ったはずなのに、新しい幻想が映ると、性懲りもなく飛びついてしまう。
 わたしの知っている恋というのはそういうものである。とても美しくやたらと都合の良いごみ箱を呼ぶときの名である。

 もしかするとこの疫病下の世界に生きる人類はそのように美しいごみ箱をうしなってしまうのかもしれない。フィジカルな出会いが極端に制限された世界では、恋することはできないのかもしれない。だって、わたしたちは、画面越しに誰かにときめいたとしても、別の名前をつけるだろう。わたしたちはすでに名付けられた相手としか接続することができないだろう。そうではないか? 理由のないフィジカルな接触が禁じられた世界で、理由のないフィジカルな接触をともなう突発的な強い幻想の相手が生じうるものだろうか?
 親密な他者はすべて、「生活や家計をともにする契約を結んだパートナー」とか「養育を法律で義務づけられた相手」とか「カネや利便で購入している/されている相手」とか「片方だけががまんして都合のよい状態を提供する相手」とか「家族の一員として迎え入れたペット」とか「推し」とかだけになるのかもしれない。この世界において、恋はもう死んでいるのかもしれない。