傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

強者と強者の恋

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために外で人と食事をするのはたいそう不自由になった。夜中まで自由にお酒を飲むといった、かつてありふれていた遊びは、ずいぶん難しいものになった。
 しかしそれは「大半の人にとって」という但し書きのつく事象であるようだった。なんとなれば私の目の前にいる女は涼しい顔で繊細な杯をかたむけ、「二軒目までつきあってもらいますから」と言うのだ。疫病前とまるきり同じである。ここはきっと、特段のコネクションと割高な料金をもって疫病前の当たり前の夜を体験させる店なのだ。
 彼女は私よりずっと若く、私よりずっと収入が多い。結婚相手はさらに羽振りがよいのだそうで、つまりはたいそう裕福なのだ。たいそう裕福だから私と割り勘で食事はしたくないという。それで私はときどき彼女に呼ばれ、飲み食いしてふんふんいって帰ってくる係をやっている。

 私がのこのこ出かけていくのは供される食事が美味だからではない。この女が美しいからである。友人と呼ぶには内面があまりに理解しがたい、珍しい動物のようにきれいな女。私はこの女を観覧しに来ているといってよい。
 もとの造作も整っているのだけれど、なにしろ隙なくできあがった外見である。私がそのように褒めたとき、彼女は当然という口調で「だってコストをかけているもの」と言った。美容医療、パーソナルトレーニング、栄養バランスのすぐれた食事。これらで皮膚表面までをきっちり仕上げたのち、かぎりなくマッチする化粧品と衣服と装飾品をまとう。でもなにより見物なのはその所作である。動作と発声が常に優雅な圧力を帯びている。そういうのはめったに見られるものではない。

 そんな彼女がこの数年執着しているのが「長沢さん」である。ともに二十代前半のころに出会い、あっというまに恋に落ちた。聞くにつけふたりとも熱烈であったらしい。しかしその日々は長くは続かなかった。長沢さんはね、と彼女は言った。わたしとつきあっていたくせに余所のつまらない女に手を出したんです。だからわたしすぐ結婚相手にふさわしい男を捜したの。それが夫よ。夫はもちろんわたしを崇拝していて、何でもしてくれるし、外見も長沢さんよりいいってみんな言う。
 もちろん彼女は結婚後も長沢さんと会っている。彼女は欲しいものをあきらめたことがない。長沢さんには恋人がいるが、彼女とも会うのである。そしてこのふたりはもう四年ほど、「恋人と別れろ」「夫と別れろ」と互いに要求しながらくっついたり一時的に離れたりしている。
 そしてこのたびはとうとう、彼女が長沢さん宅でその恋人と対面したのだそうだ。修羅場である。私はわくわくして尋ねた。それでどうなったの。
 どうともなりませんよと彼女は言った。だって長沢さんの恋人とやらは長沢さんに他の女がいると、薄々どころじゃなくわかっていた。長沢さんもそれを承知していた。わたしはもちろんぜんぶ知っていた。顔を合わせたって何も変わるはずがないでしょう?
 無粋だけども、と私は言う。あなたは離婚して長沢さんと一緒になる気はないんでしょ。長沢さんだけが恋人と別れるべきだっていう、そういうアンフェアな考えを持っているのでしょ。
 ええ、と彼女は言う。離婚して長沢さんと結婚したいなんていう気はまったくない。わたしは幸せな結婚生活を続け、長沢さんは恋人と別れてわたしだけを愛するべきだと思っている。
 マキノさん、と彼女は言う。わずかに伏せたまつげが完璧な影を落とす。マキノさんは対等とかフェアネスとかが大好きなんですね。わかりますよ、だってマキノさんは恋愛における弱者だもの。一対一という約束をつきつけないと自分の好きな人をそばに置けない、そういう弱い立場にあるんだもの。だから同じように弱い相手と約束しあう。とても自然なことですよ。対等は弱者の戦略。だからわたしには必要ない。わたしが愛する人はみんなわたしだけを愛すればいい。わたしにはそれができる。

 今まではそうしてきた、と私は言う。彼女はほほえむ。彼女は言うまでもないことは言わない。私は言う。
 でも長沢さんだけがほかに恋人をつくる。あなたはそれが許せない。長沢さんもきっとそう思っている。彼もまたあなたの言う「強者」なのでしょう。あなたはわりと俗なところがあるから、幸福な結婚生活を得たらそのぶんポイントがつくみたいに思ってる。でも長沢さんが同じポイントを得たらどう感じるかな。負けたと思うかな。

 彼女はほほえむ。そんなことはぜったいに起きないと、たぶんそう思っている。