傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あの人のこと好きだったのにな

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。家の中に人がいる時間が増え、それに連動して増えたもののひとつがDVの類である。統計上も増えているし、身のまわりでも話を聞く。今どきはボコボコに殴ると一発で終わるのか、精神的な暴力の話が多い。といってもたいていは伝聞で、被害者本人から話されたことはなかった。今の今までは。

 わたしは暴力被害者本人から話を聞いたらさぞ腹が立つだろうと思っていた。正義感というより、個人的に嫌悪感が強い。伝聞でもかなり腹が立つ。
 ところが実際に目の前の同僚が話し出すと、わたしはどうコメントしてよいかわからなくなってしまった。なぜなら彼女は、ーーほとんど無表情だけれど、わたしの感受性がおかしくなったのでなければーー楽しそうだからである。

 彼女の夫はわたしたちと同業他社で、もとは彼女の先輩だった。彼女が転職したのである。夫婦で社内にいるのもどうかなと思って、と彼女は控えめに言った。
 彼女も彼女の夫もリモートワークが増えた。そうすると彼は昼間の彼女の過ごし方をチェックする。ダイニングテーブルで仕事をしている彼女のところに来て資料をのぞきこみ、鼻で笑う。または「この程度の仕事をさせる会社にいるのはきみの勝手だが、向上心がない人間が家にいるのは不愉快だ」というようなことを言う。そして彼女の用意した昼食を食べ、そのどこが不十分であったかを指摘する。たとえば糖質が多すぎると言う。そして「こういう食い物が好きだからそんなみっともない体になるんだ」と言う。
 しかしそれは彼の機嫌が比較的良いときである。彼は突然彼女を無視する。彼女はその原因を考え、取り除く。多くの場合それは「不正解」である。その場合、無視は続行される。彼は彼女を存在しないものとして扱うが、家事の成果は当然のこととして受け取る。食事をしながら必ずため息をつき、乱雑に残したまま席を立って、その食事が「不正解」であることを示す。

 わたしが黙っていると、彼女はふたたび口をひらく。

 わたしが彼を手のひらで転がせないのがいけないのよね。
 もともとね、人の上に立つことが当たり前の人だから。チェックポイントが多くて、指導役としてはとても優秀だった、おかげでわたしも成長できたのよ。
 そしてね、彼は、誰かと横並びになることがすごく苦手なの。仲の良い先輩や後輩はいても、同い年の友だちとは今はうっすらした関係しかない。彼が「上」になろうとするから。
 そういう人だから、女や部下だったような者が「上」になると、ダメになっちゃうみたいなの。
 うん、今みたいに。
 わたし、幸いにも転職がうまくいって、この三年ばかり、とても評価していただいているじゃない? 企業のネームバリューは明らかに前いた会社、つまり彼の会社より「上」だし、最近は給与も彼より多いの。年齢は下なのにね。ふふふ。
 あの人のこと好きで結婚したんだけどな。
 威張り屋なのは知ってたの。そんな彼を手のひらで転がせると思ってた。実際、彼の仕事がうまくいっているときには、彼も転がされてくれたのよね。でも彼の評価は頭打ちになってしまった。見下していた後輩に追い抜かれたりもしているみたい。彼は言わないけど、前の会社だもの、内情は聞こえてきますよ。
 それでねうちもうずっとセックスレスなのね。わたしがだらしない体になったからだというのが彼の言い分ね。わたしそれが許せなくてね、だって努力してるのよ、体重だってサイズだって結婚前と同じに保っているのよ。そもそもわたしというか、相手の女の体型なんか関係ないのよ。わたし知ってるんだから。なんでかって、元カノたちに聞いたから。会社の後輩とばかりつきあうから情報が回っちゃうのよ、ばかねえ。
 でもわたしはそれを指摘しない。わたしのせいねという顔をしていてあげる。ある意味わたしのせいでもあるのよ、ほら彼、「上」じゃないとダメな人でしょ、そしてわたし、じわじわと、そして転職以降ははっきりと、彼の「下」じゃなくなっちゃったでしょ。確定申告の控えとか、収入がわかるものをうっかり鞄からはみ出させたりしているし。彼ね、わたしの持ち物を漁るのが、とっても好きなのよね、ばれてないと思ってるみたいだけど。

 あの人のこと好きで結婚したんだけどな。彼女はそのせりふを繰りかえす。ねえお知り合いの他のモラハラ野郎の奥さんたちを誤解しないでね。わたしがおかしいだけだからね。だってわたし、別れたくないんだもの。彼がどんどんダメになるのを見たいんだもの。こんなのおかしいよね。わたしあの人のこと、好きだったのに。