疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。とくに槍玉に挙げられたのが夜の繁華街である。「夜の街」というタイトルでホストやホステスのいる店が感染源であるかのように扱われた。
わたしは個人的にそうした接待を受けるのが好きではないので、接待する人と身を寄せあって話したりすることはないのだが、友人知人と飲みに行くことはけっこうあった。知らない人と話すのも好きで、行きつけというほどではないが、近所のバーにもときどき行っていた。
それもこれも疫病流行前の話である。そうして疫病前の生活が戻ってくることはおそらくない。世界はすっかり変わった。変わって、元どおりになることはきっとない。そこには夜の繁華街で気軽にちょっとした友人知人や知らない人と話すという選択肢はなくなった。もちろん、その選択肢を「自己判断」「自己責任」で設置して実行する人もいる。しかし、わたしはその判断をしない。かくしてわたしの生活から、いわゆる夜の町が消えた。
わたしが夜の退屈をもてあましているところに、近隣に住む妹からアルバイトの話が持ちかけられた。犬の散歩である。妹は現在妊娠しており、身体にいいからという理由で飼い犬の散歩はつづけていたのだが、犬の運動量がやたら多いのでだんだんしんどくなり、朝晩の散歩の半分を誰かに任せたいと、そのように言うのである。わたしはそれを引き受けた。早起きは嫌いなので、担当は夜である。
妹の犬は名をフサという。フサを連れて近所の大きな公園に行く。フサは中型の雑種である。犬種の定まらない外見で覚えやすいからか、わたしが連れて歩いていても「あらフサちゃん」と呼びかけられる。今日はお母さんと一緒じゃないのねと言われる。そのせりふはじきに「お兄ちゃんに散歩してもらっていいわねえ」になった。わたしは妹の兄であり、フサの兄ではない。妹がフサの「お母さん」でわたしが「お兄ちゃん」なのは妙である。でもまあいい。たいしたことではない。
夜の公園で出会う人々は多様である。半分くらいはわたしと同じく勤め人で、帰宅してから犬を散歩させている。残りの人々からは職にまつわる話が出てきたことがない。高校生くらいの子もいるし、お年寄りもいる。犬のついでにわたしたちは口をきき、相手の犬の名を覚える。
わたしは独り者で、妹経由以外の近所づきあいはなかったのだが、あっというまに顔見知りが増えた。犬を連れた人々は犬の名しか覚えないから、わたしは「フサちゃんのお兄ちゃん」である。男性の飼い主たちは主に「フサさん」と呼ぶ。犬と犬があいさつしたり謎のボディランゲージ(?)を交わしているあいだ、わたしは彼らと短い立ち話をする。リードを伸ばし、適切とされる空間を置いて。
夜の公園にはほかにも人がいる。ベンチに座って電話している男。楽器の練習をしている女(わたしは楽器に疎いので、「らっぱ」としかわからない)。ボールを使ってトスのやりとりのようなことをしていた少年ふたりのうちのひとりが、ボールを追って上げた顔をそのまま止め、「星」と言う。「星、すげえきれい」と言う。
みんな暇なのだ、とわたしは思う。大人たちは夜の街に行くことができない。少年少女は学校近くに溜まってだらだらおしゃべりできないし、友人の家に行くこともできない。遊ぶということばの意味が、この世界では変わってしまった。それでもわたしたちは遊びなしにやっていくことができない。暇だから。
仕事や役割があって差し迫った生活の心配がなくて夜の自由時間があるだけ幸福だ、感染リスクを下げるために家でおとなしくしていろ、と言う人もあるだろう。でも、とわたしは思う。恵まれているから自宅に引きこもっていろというのはまったく理屈に合わないのではないか。公園で第三者から距離をとって活動することは誰にも禁じられていないのだし、そもそも「禁じている」主体は多く特定の者ではなく、いわゆる空気である。
わたしはフサの背を撫でる。フサは撫でられるのが大好きというタイプの犬ではないので、ちらりとわたしの顔を見るだけである。わたしは言う。ありがとう、フサ。おかげで知らない人と話せる。ちょっとした知人ができる。利害関係のない、重要な他者でない、何かの役割をはさまない他人と些末な話ができる。それがだいじなことだなんて思ったこともなかったんだ。それがないと奇妙な憂鬱が少しずつ溜まっていくなんて、知らなかったんだよ。