傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼女のリゾート

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。彼女もその影響を受けて仕事をくびになった。一年前のことである。
 彼女は高給取りで、夜景のきれいな湾岸のタワーマンションに住んでいた。くびになるとすぐに賃貸物件を探し、半蔵門オフィスビルの影にひっそり残った影のような、築52年のワンルームに引っ越した。内装はそれほどでもないが、外観がなにしろ悲惨である。お化けマンション、と彼女は思った。

 彼女はしばらく仕事を探さなかった。区内にある公立図書館と大学図書館が提携していて、区民はいくつかの大学図書館を使うことができる。彼女はそれらを回り、やがてお気に入りを見つける。それほど規模の大きくない大学の、やはり規模は大きくない、設備の新しい図書館である。
 彼女は朝食を多めに摂る。それから図書館へ行く。午前中の図書館は空いている。壁際に並べられたデスクは疫病対策でひとつずつ空けて使う仕様である。落ち着いて使えていいなと彼女は思う。ソファや予約して使う個室や、映像を観るための場所まであるから、気が向いたら移動する。
 半月か一ヶ月のあいだのテーマを決める。たとえば昔好きだった作家の本をぜんぶ読み返して最新作まで追う。好きな画家の図版と伝記を読み、美術の鑑賞方法についての解説書を読む。自分が生まれた年の新聞と雑誌を大量に読む。高校生のころに読めたはずの古文を読もうとして挫折してもう一度文法からやりなおし、大学受験で一度読んで印象に残っていた古典を読む。テーマが尽きることはなかった。
 午後2時を回ると自転車に乗って家に帰る。簡単な昼食をつくって食べる。家の中を見渡す。まだ捨てるものがあるなと思う。そしてそれを捨てる準備をする。部屋と服装はどんどん簡素になる。
 あとの時間は散歩をするか、区民プールに行くか、昼寝ないし夕寝をするか、昔もらったアナログのソリティアをして過ごした。夕食も凝ったものは作らなかった。髪をひっつめると、美容院は必要なくなった。

 お坊さんみたいな生活、とわたしは言った。彼女をカフェに誘ったら図書館に呼び出されたのである。忙しいのだと彼女は言った。だから自分のいるところに来てほしいと。図書館の中に話ができるところがあるなんて思わなかった。「コミュニケーションスペース」とかいうコーナーで、コーヒーが出ないカフェみたいな感じだった。
 ここしばらくはフィクションに出てくるAI像の変遷を追うのに忙しいのだと彼女は言った。何か研究とかしているのと訊くと、そんな仕事みたいなことするわけないでしょう、と言って笑った。あのね、これは、リゾートなのよ。

 くびになって落ち込んでいると思った? 外資金融の馘首なんかしょっちゅうあることよ。それを含んでの高給なんだから、しばらくのんびりしてやろうと思った。あの競争と過労の場に帰れない可能性はあるけど、それはそれでべつにかまわなかった。そしてリゾートをやろうと思った。
 もちろん、海外の有名リゾートは軒並み閉じてた。それに、ああいうところが好きかっていうと、たいして好きでもないの。日本人の休暇の日数だと、土地に体をなじませる前に帰らなきゃいけない。カネをかけること自体を楽しむゲームとしての側面を持つものでもあるでしょう。そういうのには飽きた。
 だから自分でリゾートを作ったの。年間滞在予算二百万円の、とびきりのリゾート。家賃6万のお化けマンションと図書館と自転車と区民プールと東京の街があれば、一年だって遊んでいられる。

 わたしは彼女を眺めた。素顔をファンデーションで軽く整え、黒髪を結い上げて額を出し、すらりとした足に装飾のない薄布を纏わせている。きれいなお坊さんみたいだ。
 かつて彼女は札束で磨いたみたいにスノッブかつ超かっこいい女で、わたしはその徹底したブランド志向が好きだった。彼女はそれを「ゲーム」と呼んでいた。自分は上等だと言い張りたい連中の中で抜きん出る、あきれるほど俗っぽくて目が潰れるほどゴージャスなゲーム。
 ゲームには戻らないの、とわたしは尋ねる。戻る、と彼女はこたえる。リゾートにも飽きそうな気配がしてきたところで再就職の話が来たからね、戻る。そして中目黒のぴかぴかしたマンションに住んでいけすかないスーパーフードを食べる。
 そしてね。彼女はわたしに身を寄せてささやく。お化けマンションのあの部屋を買うの。ときどきそこに帰って、今のような暮らしをするの。