傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

一人称が強すぎる

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにもっとも影響を受けたのが医療機関である。わたしは二年以上、いわゆる同居家族以外と私的に会うことをしなかった。
 まじめだねえ、と友人が言う。二年のあいだに引っ越してフリーランスになって子どもが小学校に入ったというが、本人はあまり変わったように見えない。
 まじめだねえと彼女は繰り返す。わたしの知ってる別の医者なんかばんばん飲み歩いてたよ。ストレスたまるからって。おごるからつきあえって言われて、まあ行ったけどもさあ。
 そういう人もいる、とわたしは言う。わたしはそうしない。その人はストレス解消といろんなリスクを天秤にかけて、早くから飲みに行くのを選んだのでしょう。とにかくリスクを減らそうとするなら今でも人と会わないのだし、カフェインもアルコールも取らずに完璧な食生活をして睡眠をとることに全力を注ぐでしょ。そういう人もいる。

 友人は顔を傾ける。だからさ、その「自分の天秤」をみんなが持っていていつも使っていると思うのが、まじめだって言ってるの。
 友人はあわれなものを見るような目をする。この人はときどきそういう顔でわたしを見る。彼女は言う。

 あなたは人間が全員意思をもって人生を構築していると思っている。自分の価値観で選択して行動していると思っている。
 あなたはそうだ。勤務先が改善を要する状態なら交渉して、ブラックだったら転職して、家事と子育てについて夫と話し合って分担して、夫の親族が失礼なことを言えば反論する。あなたは「正しい労働者」「正しい女」をやっている。でもね、全員がそうだと思う?
 まさか、とわたしは言う。たとえば家事や育児の分担なんか各家庭の自由でしょ。わたしが正しいわけではなくて、わたしの基準での正しさがあるだけ。家のことをなにもしない夫でいいいんだと言われれば、そうかと思う。わたしはそういう人を愛さないし選ばないけど、選ぶ対象がそれぞれ違わなかったらえらいことだ、熾烈な争奪戦になる。できれば全員わたしと違う人を選んでほしい。
 友人は苦笑する。そういうことじゃない。

 共働きで労働時間は変わらない、生活費も負担している、それでも夫が家事をしない、家事を外注するわけでもない、結果、妻がぜんぶやる。よくある話だよね。あなたはこう思う。「家族として暮らすなら、話せばわかる人を選びたい、そういう人がいなければ結婚しない」。そしてこうも思う。「家事をぜんぶしている人は別の何かと天秤にかけてそれを選んでいるのだろう。それは夫の経済力かもしれない、ロマンティックさやセクシーさかもしれない、子どもの父親としての適性かもしれない。それぞれがその人にとってとても価値があるのだろう」。
 そうだねとわたしは言う。

 だからあなたは他人の愚痴を理解できない。友人はそう言う。正確に言うと、「自分が選んだものについての後悔」としての愚痴しか理解できない。そういう愚痴ならあなたは「そうかそうかそれはつらいね」と聞く。自分もそういう愚痴を吐く。実家が平均未満の所得なのに医学部に進学したからまじつらい、とか、そういうことを。悔しさで眠っているあいだ歯ぎしりして歯が欠けたりする。そしてあなたは「そんな世の中がおかしいのでわたしはこのようにする」とも言う。
 愚痴というものは九割がそうじゃないんだよ。あのね、愚痴というのは、天災のように起きてしまったことへの嘆き、自分にはどうしようもないことについての述懐なの。
 多くの人間は、自分の境遇を選択していない。少なくとも全部を選んではいない。「つらくなった」と感じて、それを解決する策があっても、逡巡する。逡巡したまま十年二十年過ごすこともある。あなたみたいに「わたしはこうする」「わたしはこう考える」で生きてない人のほうが多い。ずっとずっと多い。逡巡は大きな、そしておそらく重要な人生の要素なんだよ。
 あなたの一人称は強すぎる。なんで強いかというと、逡巡がものすごく少ないから、それはもう無神経に強い。そうするとあなたがあなたの考えを述べているだけで「攻撃された」と感じる人がいる。とくにね、ぐずぐずしている人について、「ぐずぐずしたくてしているならそれもひとつの選択だ」みたいなこと言うのは、ほんとうにやめたほうがいい。彼女たちは、ぐずぐずしたくてしているのではない。したいとかしたくないとかのフェーズにいない。わたしだって例外じゃない。わたしだってそうなることがある。

 そうか、とわたしは言う。そうだよ、と友人が言う。それからべつの話をはじめる。