傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

たとえば四千九百三十六分の一の生活

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの行動範囲は狭くなり、友人たちとのやりとりの頻度もぐっと落ちた。スマホで連絡するなら疫病の流行にはかかわりがない。それでも減った。顔を合わせる回数が減ってもオンラインでおしゃべりができるのはよほど親しい間柄だけであるようだった。ストーリーに既読をつけるのさえ面倒になり、インスタを開くのはDMが来たときだけになった。そもそもSNSに思い入れはなく、まわりに合わせていただけなのだった。
 そんなふうにSNSをほとんどやらなくなったあと、きっかけが何だったのかは忘れたのだけれど、赤の他人の日記を読むようになった。

 その人は有名人でもインフルエンサーでもない。キラキラした生活をしていないし、エモい恋愛の話もしない。アラサー女子あるある話もしない。DVとか毒親とかの話もしない。赤裸々要素がゼロだ。たぶんわたしより少し年上の、たぶん会社員の、たぶん女性の、たぶん東京に住んでいる、たぶん一人暮らしの、たぶん平凡な人である。
 彼女はただ日記を書いている。疫病のことはあまり書かない。リモートワークの話が出てきたりして、背景として疫病の色は見える。誰かとのおしゃべりの内容を少し書いたりもする。でもその相手が友人なのか恋人なのかはわからない。わたしはそれが好きだ。

 親友や恋人の存在や不在についてインターネットに書くことを、悪いこととは思わない。SNSで新しい友だちや彼氏彼女が欲しいことを示せばアプローチがあるかもしれないし、とても素敵な人と親しくしていて誇らしいから書くということもあるだろう。ただ、わたし自身はそういう記述にあまり関心を持てない。
 この姿勢が特別奇異に思われるかといえば、そんなこともない。二十代半ばだからといって全員がSNSを熱心にやるわけではない。やらない人間も一定数いる。わたしは疫病後、いわばそちらに組替えしてもらったような感じである。「あの子はSNSやらないから」というカテゴリ。
 わたしが関心を持てないのは具体的な人間関係の話だけではない。現代のインターネットにはたくさんの日記のようなものがあるけれど、大半はわたしに合わない。わたしはリッチな遊びの描写とか丁寧な暮らしの描写とか過激な性描写とか熱い推し語りとか、そういうのを進んで読もうと思わない。「人と比べてしまう」とか自己肯定感とか、そういう話題にも興味が持てない(自己って肯定とか否定とかするものじゃなくない? しかもだいたい属性の話してるし。属性は自己じゃないでしょう)。友だちが話したいなら聞くけれど、他人のそれに興味はない。

 それでは他人の何に関心があるかといえば、どうということのない細部に関心がある。たとえばわたしが日記を読んでいるあの人は最近クラフトビールを好きになり、ぽつぽつと買って飲んでいる。京都のメーカーがお気に入りのようだ。住んでいる町には大きな川があって、予定のない休日には橋を渡り、別の橋を渡って帰ってくる。よく本を読むようで、でも読んだ本を並べるようなことはしない。たまに感想を書くことはある。その感想がなんということのない思い出話に結びついたりする。
 彼女は実家から連れてきたインコを飼っている。インコの名前は日記に出てこない。彼女は日記のなかでそのインコを「わたしの鳥」と呼ぶ。あるいは「わたしの緑の鳥」。何度も指し示すときは単に「鳥」。
 彼女の緑の鳥は文庫本とそのページを押さえている彼女の手のあいだにくちばしをさしはさんだりする。鳥は、と彼女は書く。鳥はいまだ執拗にわたしの左手のほくろを取ろうとする。
 わたしはそういうのがとても好きだ。

 彼女は少し前に疫病にかかった。恬淡とした療養日記が綴られ、わたしはそれを読んだ。彼女は幸い軽症で、レトルトカレーに手持ちのガラムマサラを振って食べ、「追いスパイスの前後の風味の差がわかるのだから、味覚異常はほぼ治ったのではないか」などと書いていた。
 わたしはニュースの数字を確認する。新規陽性者数4936人。4936ぶんのいちの療養生活。
 残りの4835人は、わたしにとってただの数字である。
 疫病下で毎日報道される陽性者数がただの数字でしかないことが、わたしはうっすらいやだった。だって、人間だよ、ほんとは。
 どうして見知らぬ人の日記を読むのかは、自分でもよくわからないのだけれど、少なくとも「新規陽性者」のうちのひとりがただの数字でなくなったことは、わたしにとっていいことだと思う。