傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

女の子であること

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためによその家族と一緒に近場の温泉に行くのは二年ぶりである。
 わたしには子がおらず、子どもの相手をするのはわりに好きだ。友人には子が三人いて、上から六歳、四歳、二歳である。友人の配偶者は子育てをしない。それで子連れの小旅行に出るときにはわたしとわたしのパートナーが一緒に行く。

 温泉に入る。友人の真ん中の子は男の子なのでわたしのパートナーが男湯に連れていく。あとは女湯に行く。友人は二歳の子の面倒を見、わたしはわりと手のかからない六歳の相手をする。二年見ないうちにとても大きくなったし、言葉遣いなんかもだいぶしっかりした。お湯の準備をこまごまとして、「よし」というふうにうなずく。そしてわたしを見上げてはっと固まる。
 どうしたのと訊くと小さい声で「ユカリさんは……女の子だ」と言った。わたしは服を脱いでおり、子どもの視線はわたしの胸にがっちり合っている。いや服の上からも膨らんだ乳房があるのはわかると思うんだけども。あときみと風呂に一緒に入るのは三回目だよ。

 わたしは女である。出生時からそういうことになっているし、強く反対する気分になったこともない。でも本音を言えばどちらでもいいというか、なんでもいい。
 自分が女とされていることは了承しているが、それが自分にとって重要なことと思われない。社会問題として個々人のさまざまな性のありかたが認められることは重要だと思うが、私個人のアイデンティティにとって性が重要ではないのだ。わたしにとって非常に大切な人からよんどころない理由で「男になってくれ」と頼まれたら(そしてそれが可能なら)男になってもかまわない。
 服はレディースを着ている。日常的に化粧をしていて、女性向けに売られているアクセサリーをつけている。それでもショートカットで上背があるから、それでこの子はわたしを男だと思っていたのかもわからない。この子の母親であるところのわたしの友人が「ユカリさんはこんなお仕事をしていてすごいのよ」というようなことを子に言うので、それも影響しているのかもわからない。この子の家では女の人は子どもの面倒を見て男の人は子育てや家事をせずいばっているものだからである。わたしはいばっていないし家事をするが、人にいばらせていないし、子どもを育ててはいない。
 ともあれ子どもが「女の子だ」と言うので、そうだよとわたしは言う。わたしはどっちでもいいんだけどね、と言う。すると子どもはまた固まる。

 この子にとって「女の子」であることは非常に重要なことなのである。髪を長く伸ばし、あこがれはドレスを着たプリンセスで、母親の結婚式の写真を見るのが好きだ。たいそううっとりした顔で長時間見ていたのを覚えている。
 この子が四歳のとき、ユカリさんはけっこんしないのと訊かれて「しない」と言い、なぜと問われて「したくないから」とこたえたのも、もしかすると「女の子認定」がなかった要因のひとつであるかもわからない。
 わたしはにっこり笑って子どもをうながす。子どもはスイッチが切り替わったように風呂に向かう。
 わたしたちは並んで髪を洗う。洗ってあげるつもりでいたのに、子どもは得意げな顔でわたしを見て、もうひとりで洗えるのだと宣言する。わたしはいいにおいのするシャンプーをわけてあげる。子どもはそれを喜ぶ。お花のにおいだよ、とわたしは言う。子どもはもっと喜ぶ。

 ひとりで髪を洗えるけれど、乾かすのはまだ人にやってもらいたいらしい。わたしは子どもの髪にドライヤーをかける。長いので時間がかかる。二年前にはじっと座らせているのがたいへんだったのに、今やつんと澄まして鏡を見ている。
 ロビーで男湯に行ったふたりと落ち合う。今夜はこの温泉宿に泊まるのである。子どもはわたしとパートナーの顔を見比べ、ふたりははじめてのおとまりなの? と尋ねる。わたしは苦笑して、ずっと一緒に住んでるんだよ、と言う。子どもは難しい顔をして、ふうふだから? と訊く。ふうふじゃないよ、とわたしは言う。カップルだから? と子どもが重ねて尋ねる。カップルだけど、そうじゃなくても一緒に住むこともある。世の中にはいろんな人がいる。わたしがそのように説明すると、子どもはわたしに飽きてきょうだいのところへ行く。
 あの子の親であるところの友人がわたしを子どもに会わせたがるのは、いろんな人間を見せたいからかもわからない。