傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

光る丘の向こうに消える

 皆で草原を歩く。彼も皆と話しながら楽しそうに歩く。それから、ふとそこを離れて、草原の向こうに何かを見つける。いくらか離れる。わたしはその姿に声をかける。強い陽の光が邪魔をして、彼の姿がいくらか抽象的な彫像のように見える。
 彼はわたしより少しだけ早い足取りで歩いているのだろう、追いつきそうで追いつかない。足元は傾斜していてわたしの足はいつもより遅い。わたしが声をかけても彼は、振り返って手を振るばかりで、わたしから遠ざかるばかりで、戻ってきてはくれなくて、遠い顔も高く挙げた手も上機嫌なかたちをしているのに、どうしてかわたしは、ひどく不安になる。あの丘の向こうが巨大な穴で、楽しそうに笑って手を振る彼だけがそれを知らずにいる。そんなふうに思う。

 あれはなんだったんだろう。
 わたしは言う。いつだったかな、けっこう前のことだと思うんだけど、ほら、ちょっと異界みたいな雰囲気の、草原と低木の山の、その草原の中を、何人かで歩いたことがあったでしょう。島でキャンプしたときだったかな。あのとき、あなたは視界の中にいるのに、あなたがいなくなるような気がしたのよ、それで急に怖くなったのよ、ちょっと離れて散歩するなんてよくあることなのに。
 結局もちろんなんでもなかった。でもあのときのことわたしときどき思い出すの。
 彼はこたえる。
 それはいま、海辺にいるからでしょう。
 あなたの言うのは、たぶん島でのことではなくて、阿蘇の草千里を歩いたときのことだよ。浜とあだ名のつくような景色だから、海っぽいところにいると思い出すし、島での話だと思ったんじゃないかな。皆でキャンプした島にはそんな丘はなかったよ。そして僕とあなたとそれ以外の大勢で広々とした自然の中を歩いた経験は他にはないよ。あとはぜんぶ二人でか、せいぜい二組での旅行。
 わたしたちが一緒に行った旅行と一緒に行った人々の名前を、古いほうから順繰りに挙げてみせて、彼は少し笑う。
 よく覚えているなあ、とわたしは思う。わたしたちはしょっちゅう二人で遠くへ行くし、お互い一人旅もするし、互いの友人たちとも旅行する。だからわたしは誰とどこへ行ったかあっというまに忘れてしまう。このたびの海だって、何度目の海かわからない。ビーチ。浜。磯。港。干潟。船。青。白。灰色。さざなみ。白波。朝の海。夜の海。
 よく行きたくなるくせに、わたしはほんとうは、海がそんなに好きではない。怖いからだ。街の怖さや山の怖さは知識と用心で確実に削減できる怖さだ。うまくつきあうことのできる怖さだ。海の怖さはそうではない。海は、中に入らず横目に見ながら歩いているだけで、どんなに穏やかなようすでも、何かが怖い。

 彼は言う。
 でもあなたの記憶は書き換えられている。草千里を上機嫌で歩いて行ったのは、僕じゃなくてあなたのほうだ。だって僕はその前に丘をかけ登る競争に加わって全力疾走してぜえぜえ言ってたんだから。あなたは走らずにのぼってきたから余裕で、走り疲れた僕らを置いて灌木の花を見に行ったんだよ。
 そうとも。
 歩いて行ったのはあなたです。不安になったのは僕のほう。追いかけたのは僕のほう。賭けてもいい。あのときはまだ今よりは若くて、草が生えている傾斜があると走ってのぼってたんだから。どうしてかそうしたくなるんだよ、体力が追いつくなら今でもそうする。あなたは昔からそういう、晴れた日の犬みたいな人間じゃなかっただろう。
 だから僕はどうにか息をととのえてもう一度走ったんだ。あのときはしんどかったなあ。
 どうしてか不安になってね。

 そうだったろうか。
 そのような気もするし、そうでないような気もする。

 彼はあのとき不安になったのだと言う。
 それならいつもは不安ではないのだろうと思う。わたしはそうではない。わたしはいつもどこかで薄く、この人が突然いなくなると思っている。もうずっと一緒にいるのに、そう思っている。ずっと一緒に暮らしているのに、そう思っている。向こうに目を遣ると、棒きれみたいに細長い、昔の姿の彼がいて、そのころよく着ていた、生成りの麻のシャツが揺れる。あのシャツはいつだめになったのだったかしら。彼はあんなに足が早かったかしら。わたしと手をつないでいなかったかしら。もうあんなに遠くにいる。手を振って笑って、でも足を止めてくれない。強い陽の光が邪魔をして、彼の姿は、いくらか抽象的な彫像のように見える。