傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

感情の通貨

 疲れたあ。
 娘がそう言うので、おう、がんばったな、とわたしはこたえた。そして彼女にすいかを切ってやった。
 娘は中学三年生、受験前である。夏期講習がだいぶきつかったようだ。ダイニングの椅子に座る姿勢もなんとなくぐじゃっとしている。
 なお、わたしもそんなに元気ではない。こちらは単純に連日の暑さでバテたのである。わたしも娘とそっくりの姿勢でぐじゃりと椅子に座る。娘はそれを見て麦茶をグラスに注いで持ってきてくれた。この家の麦茶は三年前から娘が作っている。

 娘が十二歳のとき、なぜお手伝いをしなくてはいけないの、と訊かれた。
 娘が幼児のあいだは遊び半分で娘がやりたいときにやりたい家事を一緒にやっていた。十二歳になったとき、「これからは遊びではなく、自分がやると決めたことを、気が乗らないときにもやりましょう」と宣言した。
 娘は合意し、しばらくやっていたのだが、なにしろ理屈っぽい子なので「そういえばなぜ、自分は麦茶をつくり、タオルをたたみ、水曜日にお皿を洗うのか」と思ったようなのである(これが娘の担当する家事である)。子どもは働かない、子どもは遊ぶのと学ぶのが仕事で、それも子どもの性質に合わせて相談しながらやるものだと、そのように教えていたためだろう。言うまでもなく家事は労働、仕事である(そのように娘にも言っている)。
 夫に言わせれば、子どもにお手伝いをさせるのは、「責任感をはぐくむ」とか「実際的な家事能力を身につける」とか、そういう目的があるのだそうだけれど、わたしの目的は他にあった。

 人に親切にするのは難しいことだ。誰かに何かをしてあげたいと思っても、時と場合と相手によって相手が必要としていることが異なる。しかしたいていの場合、冷蔵庫に飲み物があればうれしいのだし、清潔なタオルがあって困ることはない。なければ自分でやればいい。子どもにだってできる、簡単なことだ。でもやってもらったらうれしい。
 わたしはそういうちょっとしたお世話を、もっとも簡便な感情の通貨だと思っている。特別な相手にも特別でない相手にも使えて、してあげてもしてもらっても負担にならないもの。わたしはそれを差し出す。その場で一緒にいることがOKな相手に、今後かかわりあいになりたい相手に、今のかかわりあいを続けたい相手に、差し出す。相手も似たようなものをくれるーー上下関係がなければ。でもわたしの人間関係のうち上下があるのは職場だけだし、その職場でははるか昔にお茶くみ廃止令が出ている。
 言葉は有力であり、複雑な事象を伝えることができる。愛に関してももちろん、言葉は有力である。しかし、ちょっとしたケアのない、あるいは片方が片方のケアを吸いとって与えることのない関係における言葉のやりとりは、やっぱ、わたしの、愛じゃないよな、とも思う。わたしは非常にフィジカルな人間なのである。愛は皮膚に乗り、愛は生活に宿り、そして愛は、具体的なものだ。
 娘にはこの五十分の一くらいしか説明していないが、なんとなく納得したようだった。娘が女の子どもなので、わたしはこのように付け加えた。ちなみに昔は、いや今でも、お世話をするのが女だという、ヤベー嘘があって、愛があればお世話をするみたいなやつが、キラキラな少女漫画とか映画とか、いろんなものに入ってて、そういうの大好きな子もいるんだけど、どう考えても罠なので、あなたにははまらないでほしい。いいですね、一方的にお世話を要求する人間にあなたの能力を向けないこと。ママそういうのほんと無理なのよ。

 ありがと、とわたしは言う。それから娘が持ってきてくれた麦茶を飲む。
 なんでだろうね、と娘がつぶやく。わたし果物むけるのに、ママお茶いれられるのに、自分のだけ自分でやるほうが効率もいいのにね。
 わたしは娘の顔を見る。それから言う。そりゃあんた、自分でできること全部自分でやってたら、自分のことなんでもできる人間は全員さみしくなっちゃうじゃないのよ。いや全員じゃないか、さみしくならない人もいるな、えっと、ママはさみしくなります。うん、手がなくてグラスが運べないからそれを仕事にしている人に持ってきてもらう、これは権利で福祉で制度。手があって難なくグラスを持てるけど親しい人に持ってきてもらう、これは甘え。スイーツ。ママはスイーツが好き。そうだおばあちゃんがくれたゼリーまだ残ってたっけ、あれも食べちゃおう。