傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

腰痛のしくみ あるいは、我慢は努力ではない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにもっとも影響を受けたのが医療機関である。わたしの職場は感染症とは直接関係しない科なのだが、それでもえらい目に遭った。長いこと、プライベートでは夫と子どもにしか対面しなかったし(疫病流行以降、一気に広まった語であるところの「同居家族」だけということだ)、その後も対面では親族としか会っていない。同じ都内に住んでいる両親を自宅に呼ぶにも食卓にアクリルの衝立を置いていたものである。
 近ごろは会食なしで短時間会うことは問題でなくなったので、友人たちとも会うことにした。画面越しでなく会うのは二年半ぶりのことだ。

 対面はすごい。なんかこう、身体の存在感がすごい。わたしはしばし感動してお茶を飲む友人を眺めた。
 仕事で相対するのは患者さん(近ごろの病院では「患者さま」だが、医療従事者にとってはそれぞれが「〇〇さん」なので、わたしの中では集合としても「患者さん」である)、それに医師とか看護師とかの役割を持った人間だ。わたしもそのひとりである。病院にある身体はすべて何らかの役割と目的を持って動いている。だからわたしにとってはあまり生々しくない。もちろん、相手はこのうえなく人間なのだけれど、適切な手順にのっとって接触する、不規則さの少ない存在である。
 そこへいくとカフェに座っている友人はめちゃくちゃ存在感がある。次に何をするかわからないし(いやそんなに突拍子もない人ではないのだが)、伝達内容が多彩だ。画面越しだといかに身体表現の情報が欠けるかを思い知らされる。わたしたちはひとしきり近況を話す。たがいの仕事と共通の友人の話がひと段落すると、友人が言う。最近腰痛が出ちゃってさあ、と友人が言う。

 それは我慢しないほうがいい、とわたしは言う。専門じゃないし診療場面じゃないから断定はできないけど、その症状なら街中のペインクリニックでブロック注射の適応になると思う。要するに局所麻酔を打つの。すぐ楽になるよ。
 友人のからだがちょっと後ろに傾く。そして言う。ペインクリニックって、痛み専門てことよね。いやそれほどじゃ。麻酔かけるような痛みでは……ねえ。
 わたしは言う。そんならいいんだけどね。もし強く痛むようになったら考えてみて。あのさ、腰痛の痛みをずっと感じていると、どうなると思う?
 友人は思案する。どうだろ。慣れちゃう?
 わたしは宣言する。ううん。もっと痛くなるの。どんどん痛くなるの。

 これは端的な臨床的事実だ。
 たいていの場合、痛みの原因が消失したら痛くなくなるのだが、そうではないものもある。ある種の腰痛はその典型だ。痛みを感じた神経が過敏になり、さらに強く痛みを感じる。痛みの悪循環、などと説明される現象である。これを治すにはどうするかといえば「いったん痛くなくする」。そのための局所麻酔だ。その場をどうにかするための痛み止めではなく、痛みのサイクルを切断するための措置なのだ。
 友人はほわーというような音声を発し(こういう音声もオンラインだとどういうわけか減ってしまうな、とわたしは思う。オンラインではみんな明瞭なことばを話す)、じゃあそれやるわ、と言った。我慢しても意味ないんじゃん。
 そうなの、とわたしは言う。我慢は努力ではないの。我慢が努力になるのは、「こういう理由でいついつまで待たなければならない」とわかっているときだけなの。
 「我慢は努力ではない」。これはわたしの学生時代の指導教員のせりふで、わたしがわりとだいじにしているものである。わたしはそれを素直に受け取り、待つべき理由があるとき以外、闇雲に我慢しないことを決めた。仕事でも夫婦関係でも子育てでも親戚づきあいでも、「わたしが我慢すれば」という発想を持たないようにした。
 だからわたしは夫の親族の一部から生意気で気が強い女とされている。わたしが思うに、生意気とか気が強いとかいう語彙はそもそも相手を下に見ていなければ使わないので、たとえ生意気でなく気が強くないようにふるまっても別に好かれない。我慢して控えめに楚々とふるまってハイと頷いて顎で使われても、夫の親族の一部から雑に扱われることに変わりはない。なんならエスカレートする。だから「わたしはそんなふうに扱われるべきではない」と示したほうが、わたしの存在が傷まない。手間暇はかかるし夫もたいへんだろうが、そういうコストが発生することを承知の上で一緒になった仲である。

 注射、痛いけどね、とわたしは言う。それな、と友人も言う。わたしたちはうふふと笑う。