傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

納豆とわたし

 わたしが納豆を食べるようになったのは二十八歳のときである。
 食べ物の好き嫌いの少ない子どもだったのに、納豆だけはどうしてか強く拒否していたらしい。生家は関東だが、納豆を常食する家ではなく、食べなくてもよかった。しかし、小学校の給食で年に一度だけ納豆が出た(なぜ年に一度だったのかは覚えていないが、とにかく絶対に一度だけ出たのである)。小学校一年生の時分から、わたしはそれを拒否していたのだそうである。
 いわゆる「完食指導」があった時代だ。高学年になるとより厳しくなるようだった。それでわたしは納豆の日だけ仮病を使って学校を休むようになった。ろくに風邪もひかない丈夫な子どもだったが、年に一度の給食納豆の日には「熱がある」と言って家で寝ていた。他の日に仮病を使ったことはない。仮病を増やして「ずる休みだ」と指摘され、その結果納豆を食べざるをえないことをひどく怖れていたように思う。クラスの皆にも担任の先生にもぜったいに納豆を食べられないことを知られたくなかったように思う。知られることすらリスクだというような感覚があったのだろう。

 大学生になると、「為せば成る」という若者らしい(?)勢いで、「食べられないものがゼロだったらかっこいいな」と思うようになった。それで夜遊びの帰りなどテンションが上がった状態で吉野家に入り、小さな納豆パックのついた朝定食を注文した。結果、あっという間にテンションを急降下させ、すごすごと店を出た。どんなに高揚した状態でどんなに勢いをつけても、ひとつぶ以上を食べることができなかった。大学二年生のときに二度、そうした無為な挑戦をしたと記憶している。そして「挑戦心で食べ物を無駄にするのは不道徳である」という結論に達した。
 そんなだから二十八歳のときに納豆を食べたのは自分の意思ではなく、事故であった。
 わたしはリサーチ会社に就職し、なかでも質的調査を得意としていた。クライアントの意向に沿ってターゲットにインタビューをするのだが、中には何度もお世話になる相手がおり、そうなるとわたし自身を信頼してもらう必要が生じる。専門用語でラポール形成という。
 あるとき、地方都市の駅前再開発のためのチームが編成され、わたしの会社もそれに加わった。そしてわたしは地域の有力者に何度も話を聞くことになった。彼らはわたしにたいへんよくしてくれて、立派なおうちで手料理などご馳走してくれるのだった。その席で納豆和えが出た。刺身をヅケにして納豆で和えた料理である。
 ノー・納豆・ノー・ラポール
 わあ、おいしそう。わたしは反射的にそう言い、食べた。
 それが本当に美味しかったのだ。「魚は地元の新鮮なやつだけど、納豆は普通のおかめ納豆だよ」とのことだった。
 狐につままれたような気持ちでその地方都市から帰ってきた。そして恐る恐る納豆を食べはじめた。やはりまったく平気で、普通の食品として食べられるのだった。今ではむしろ好物である。

 もともと納豆以外に「食べられない」自覚した食材はなく、あちこちに海外旅行をしても食べられないものはほぼなかった。スパイスや変わった調理法、組みあわせもどんとこいである。ドリアンは進んで食べる気にならなかったが、あれも新鮮ならくさくないと聞くから、いけると思う。まだ本来の、素晴らしいドリアンに出会っていないだけなのである。
 加齢とともに食べる量(とくに脂)は減るが、食べられるものの数は増えるのではないか。子どもの味蕾は苦味を強く感じ、その後はどんどん鈍くなるので、大人になると野菜などが食べやすくなる、という話も聞いたことがある。年を重ねて経験が増えれば「これもいける」という気にもなるだろう。

 いや、年をとるごとに食の幅を狭くする人もいる。
 友人が言う。それからかわいそうなものを見る目でわたしを見る。あのね、世の中の大多数の人は、そもそもそんなに食べ物に拘泥していない。あんたはもうちょっと自分のマイノリティ性を自覚したほうがいい。たいていの人にとっては、納豆なんてマジでどうでもいいの。同じものばかり食べて生きているのが人類の多数派なの。何だよ、「食べられないものがゼロだったらかっこいい」って。
 そうかなあ、かっこいいと思うけどなあ。わたしは自分がランダムに世界のどこに放り出されてもおいしいごはんを作って食べられる人であるといいと思うよ。強そうじゃん。