傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたのことは好きじゃなかった

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。現在はワクチンがある程度いきわたり、感染者数がかなり減って、みんななんとなくうきうきしている。それでわたしも連休に帰省することにした。
 わたしの地元では「東京で働いている娘が来て感染させた」となったら家族にものすごく迷惑がかかりそうで、帰省を控えていた。県の中核都市だから、知らない人もいっぱい歩いていて、娘が帰省したからその親が村八分になるみたいなことはないんだけど、それでもやっぱり、わたしはずっと、自分が生まれた町に帰れなかった。

 わたしの生まれた家にはわたしの両親が住んでいる。両親は疫病前から家を売ってマンションに住もうという話をしていて、だからわたしは自分の生まれた家にお別れするつもりで来ていた。妹は県内に住んでいるからしょっちゅうこの家に来ているし、両親にも会っている。そんなわけでわたしだけがちょっとセンチメンタルだった。
 自分が使っていた部屋に残しておいた荷物を引き上げ、部屋の写真を撮る。妹と妹の子がやってきて、そのあと父が帰ってくる。こんな当たり前の帰省がずっとできなかったんだなと、そんなことをあらためて思う。
 久しぶりに母の手料理を食べる。わたしはそれをほめる。それから、お母さん副反応軽く済んでよかったよねと言う。母の表情がすっと止まった。

 わたしは困惑する。えっと、なんで。

 父がテレビのチャンネルを変えて音声を大きくする。わたしはさらにうろたえる。お父さんそれってわたしたちが子どもだったころドラマとかで唐突なラブシーンがはじまったときにしてたやつじゃん。
 妹が言う。やっぱり打っちゃったかー。まあお母さんの自由にすればいいんだけど。自分の免疫が信じられないなら毒を入れるのもいいんじゃない。お姉ちゃんとしゃべってたら感化されちゃうだろうし。昔からそうだよね。まあいいんだけど。

 両親が目の端でわたしをとらえる。わたしは納得する。
 妹は家族に接種しないことを強要するほど強硬なワクチン反対派ではないが、家族が接種したら機嫌が悪くなる程度のワクチン反対派ではあるのだ。そして妹にとってそれは単なるワクチンについての問題ではなく、「お姉ちゃんとしゃべってるから感化される」ことの一例にすぎないのだ。
 妹と仲が悪かったのではない。少女のころはとっても仲良しだった。でもわたしが東京の大学に入ったあたりから、妹とはちょっと合わないところがあるなと、わたしは感じはじめた。ときどき帰省して話すと「えっ」と思うようなことを言うのだった。選挙の時期に帰省してそれを話題にすると「投票なんてする気はない」とか(ちなみに両親は毎回投票する。歌の文句のように「投票行って外食」だった)。わたしが彼氏と同棲をはじめたときには「結婚してもらえないの?」と言っていた。わたしが「結婚というのはしてもらうとかそういうのではない」と言いかけると、と妹は笑って片手をひらひら振って話題を打ち切るのだった。
 そうはいってももちろん妹に対する感情は変わらなかった。ちょっとうっとおしいくらいわたしのあとをついて歩いていた、わたしの妹。大きくなった妹は情が厚くて友達がいっぱいいて子育てを熱心にしていて両親のことをこまめに気にしてくれて、道に迷っている人がいたら自分が急いでいても助けてあげるような、すてきな女性に育った。ただちょっとわたしと考え方が合わないところがあっただけだ。そもそも、姉妹だからといって関心領域や考え方が同じだったらそのほうがおかしい。
 妹だって「お姉ちゃん、その話わかんないわー」と言って話題を移す以上の意思表示はしなかった。年に二回のわたしの帰省のたびに笑って話して、わたしに姪っ子を預けて外出したりもしていた。妹は姪をとても大切に育てていて、友だちでも預けられる相手は少ししかいないといつか言っていた。だからわたしは妹に信頼されているのだと、今の今まで思いこんでいた。

 これはワクチンの話ではない、とわたしは思う。妹はワクチンの話をしているのではない。ずっとずっとわたしのことなんか好きじゃなかったという話をしているのだ。好きじゃない姉が好きな両親に悪影響を与えて不愉快だという話をしているのだ。でもべつにいいけどね、と。なぜならすでに心理的な距離を取っている、だからべつにいいんだけどね、と。
 わたしだけが妹を好きだった。わたしだけが何年も、妹のことを好きだった。