傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

夫の無職とわたしの生活

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから長い時間が経ち、疫病とそれに対する政策のあおりをうけた企業の事業撤退や縮小、売却、倒産が相次いだ。わたしの夫の職もそのようにしてあやうくなった。だから無職になると夫は言い、そうかいとわたしはこたえた。
 夫は自分がこれまで身につけたスキルを検討し、疫病下の世の中では買いたたかれると判断して、しばらく社会人向けの職業訓練プログラムに(オンラインで)通って、それから転職するということだった。真面目である。わたしだったらしばらく不貞寝してると思う。あと一日中ゲームやってると思う。

 Zoom会議をしていると生活音が入る。もうみんな慣れっこだが、今日の相手からは、ご家族いらっしゃるんですか、と訊かれた。いますとわたしはこたえた。ご主人ですかと重ねて訊くので夫ですとこたえた。お仕事なにしてる人ですかと訊かれたので無職ですとこたえた。相手は沈黙した。そして話題を打ち合わせ内容に戻した。やった、とわたしは思った。二人きりの打ち合わせでやたらとプライベートなことを聞きたがる相手で、ちょっと困っていたのだ。

 晩ご飯を作りながらことの顛末を話すと、彼はそりゃあいいねえと言ってげらげら笑った。わたしたちはおしゃべりだ。わたしたちはともに料理をする。交代ですることもある。どちらもしないこともあるし、どちらかだけができないこともある。その場合はカネで解決する。
 わたしたちは掃除が嫌いで、たがいの持ち場にいやいや掃除機をかけている。一ヶ月に一回掃除日をもうけ、ふだんはろくにしない拭き掃除や磨き掃除をやって、「なんて立派なんだ」「掃除をするなんて偉大なことだ」と互いをたたえてその日は豪華な外食をする。

 わたしは夫を恋愛的な意味でも好きだが、それはたまたまである。わたしが彼を選んだのは生活のためだ。わたしの理想の生活のためだ。わたしは誰かと一緒に住むならカネも手間も二分の一ずつ持ち寄りにしたかった。名前のついた家事を分担するだけではない。女だけが洗面所を拭いたりタオルを取り替えたり麦茶を作ったりトイレットペーパーを補充したりするのでない家にしたかった。苦手なことがあれば口に出して話して割り当てを調整する、そういう関係がよかった。だから夫を選んだのだ。
 たとえ「女だから」系の要求がなくても、たとえばわたしの掃除は雑だから、日々の丁寧な掃除を要求する人とは暮らせない。そういうこまごまとした相性が合うことは大切だ。なにより理屈の通じない人とは暮らせない。理屈の通じない人はいっぱいいる。夫は理屈と感情でしか話をしない。そして「これは感情の話」とちゃんと言う。そこが最高だ。

 そこまで話すと夫は薄ぼんやりした顔で、理屈と感情以外になんかあんの、と言う。だって私生活だよ、理屈と感情以外に判断要素なくない?
 規範、とわたしは言う。常識、と付け加える。当たり前、とたたみかける。夫は掃除日以外に掃除の話をされた時と同じ声音で「あー」と言う。その存在は知っています、という程度の意味である。それから言う。
 なんかこう、人格がそういう変なルールでできてる人、いるよね。色恋とか結婚とかの話でとくに目につく。尊敬しちゃうような女にはたたない系の男とか、男の名刺と結婚しちゃう系の女とか。それはまあ好きにしたらいいんですよ、そういうフェチなんだから。ある意味すごく高度な変態だ。ペアーズのプロフで抜けるんじゃねえか? すごいな。エコだ。だけど俺に同じタイプの変態になれと言われても困る、俺のフェチは別のところにあるので。
 わたしは「口が悪い」と繰り返しながらげらげら笑い(わたしも口が悪いのでお互い様である)、それから、彼には彼の鬱屈と憎しみがある、と思う。恋愛と結婚を切り離して考えない、そのくせ旧来型の性役割分担には乗りたくない、彼の。

 わたしたちは行けなくなった海外旅行の話をする。わたしたちはベランダのプランターで育てている植物の話をする。わたしたちはたがいの友人の話をする。それからもちろん、わたしたちの生活の話をする。今週の買い出しの日程を決め、年末年始のたがいの予定を確認し、洗濯機の買い換え計画を延期する(夫の就職が決まってからということで)。
 夫はわたしと一緒に暮らし始めたとき、「完全なイーブンはまぼろしだけど、フェアであることはやめたくない」と言っていた。そしてそれは嘘ではなかった。そんな男は石油王より貴重だとわたしは思っている。いや、石油王を兼ねてくれてももちろん大歓迎だけど。おもしろそうだから。