疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。僕の勤務先は人が出歩かないと儲からないところだったので潰れた。
そこで今後を案じて新しい技能を身につける勉強をしつつ、しばし無職を楽しむことにした。ほんとうは無職になったら世界一周したかったんだけど、僕が世界一周できる状況だったら僕は無職になっていない。つらいところである。
僕はふだんの生活にあまりお金をかけないたちだから、貯蓄でしばらく保たせることにした。疫病のために人づきあいも極端に減ったから、家賃もふくめて月に十万あれば生活できる。
もちろんひとりきりだったら、いくら質素でも十万じゃやれない。でも僕には同居している結婚相手がいるからやれる。人間は寄り集まって生きると安く上がる。家賃も光熱費も食費も、二人で住んで二で割れば、一人暮らしよりずっと安い。安く上げてできた余剰で子どもや病人をやしなうといいよなと思うけど、しばらくは無職の自分をやしなうことにする。
そこまで話すと友人は絶句し、奥さん怒ってるんじゃない、と言った。僕はちょっとびっくりして黙り、それから言った。なんで。僕が僕の職を変えるんだよ。僕が一時的に無職になるんだよ。妻、関係なくない?
いや、あのね、と友人は言った。あのね一般的に夫が無職になると妻はショックを受けてネガティブな感情を持つのよ、なんなら離婚になるかも。
僕は反論した。それはさ、割り勘じゃない家のことでしょう。所得の高い夫が妻に家事をまかせて生活費を出す家もあるもんね、そういう家なら、夫が退職したら妻も失職するようなものだから、夫が勝手に無職になったら、そりゃ困る。あと、一緒に貯金をしている場合も相手の稼ぎがダイレクトに影響するな、そういう場合も結婚相手の所得が減ったら気を悪くするかもわからない。
でもうちは家計も家事も割り勘、育児も発生してない、貯蓄も別。だから僕が無職になっても妻が怒る理由はない。えっと、僕が無職期間のあと就職できなくて自分のぶんの生活費が出せなくなったら怒るかもわからない。結婚すると相手に扶養義務があるから、そりゃ怒るよね、元気で働ける状態なんだから自分の分は自分で出せって言うと思う。でも、僕は就職できる。最悪できなくてもうちの家計負担なんてバイトで稼げる程度なんだよ。だから妻が怒る場面は生じない。実際「無職まじうらやま」って言われた。相変わらずご機嫌な女なんだ。
友人は絶句し、ちょっとまって、と言った。僕は待った。友人は言った。きみはある意味で立派だ。すがすがしいほど理屈に合っている。だが世の家庭の大半はそういう理屈が通るところではない。えっと、多くの人にとって、結婚するということは、収入の一定以上が、なんなら全部が、「家のお金」になることなの。そんでだいたいの場合、女の人が家のことをするの。たとえ収入が同じでも。
僕はびっくりした。いつの時代の話だ。「家の金」ってなんだ。意味がわからない。もちろん離婚する時の共有財産の扱いは知ってる。別れる予定はないけどいちおう書面を作ってある。でもそれは個人と個人の財産の話だよ。江戸時代じゃあるまいし、「家」なんてないよ。人が寄り集まってるだけだよ。それに僕は、女性のほうが多く家事をしがちなのは労働形態や収入格差のせいだと思っていた。経済的に同等の夫婦でも女の人が家事や育児をやるのか。それじゃ稼いでる女の人が結婚したくないの当たり前じゃん。
そのようにまくしたてると友人はあわれみをこめた目で僕を見て、ピュア、と言った。理屈どおりに生きている。個人的には、きみにはそのままでいてほしい。でもひとつ聞きたい。どうして結婚したの。その考え方だと結婚する意味、ないでしょう。
僕は迷いなく、めんどくさかったから、と答えた。僕も彼女も旅行が好きで、一人旅もやるんだけど、たとえば片方が旅行先で事故にあったとき駆けつけやすいのは戸籍が入ってる相手で、そうじゃないとものすごくめんどくさい。引っ越しのときにも籍が入ってないと「どういうご関係ですか」とか聞かれてめんどくさい。うるせえと思う。キモいと思う。だから結婚した。親もそのほうが安心するって言うし。なんで安心するかはいまだにわかんないけど。まあ僕の親はあんまりものを考えないタイプだから、みんなと一緒がいいんだろうね。
僕がそう答えると友人は苦笑し、きみもある意味で考えてない、と言った。でもそういう「考えなさ」、良いと思う、どうかそのままでいてほしい。