傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

バーベナ・オブセッション

  わたしたちは会場を出て更衣室に向かう。わたしは周囲を見渡す。彼女とわたしの間に入ってきそうな人がいないことを確認する。わたしはおしゃべりをキープする。わたしは自分のてのひらをスカートの生地で拭く。わたしは彼女の肩に手をのばす。ちょうどいい速度で、ちょうどいい顔をつくりながら。まじで。そう言って、彼女の肩を軽く押す。きちんとダイエットしているわたしの肩のようではない、ちょっとゆるんだ感触。彼女は笑っている。わたしは寄せ植えに目を遣る。花は美女桜の多色混合だった。わたしは植物にもくわしい。

 彼女の視線がわたしの顔から腰まで移動する。彼女はたぶんわたしの名前をはっきりと覚えていない。ーー現実的な観測として。でもなんとなくは覚えていると思う。口を利くのは二度目だから。わたしの学校の名前を聞いて、すごいねって彼女、言ってたもん。まあだいたいそう言われるんだけど、ていうか国内にわたしの大学より「すごい」ところはないから、ぜんぜん、慣用句なんだけど。

 彼女はそんなに頭の良いタイプじゃないとわたしにはわかっていた。そんなにばかじゃないけど、ていうか、ぜんぜん、ばかじゃないけど、わたしから見たら教養が不足していて、計算が遅くて、美意識が凡庸。女子更衣室で見たんだけど、私服がちょっとださい。

 三日間のイベントのあいだアルバイトに貸与される制服は今ふうのユニセックス。フレンチサイズ、選択肢はふたつだけ。男は40と42、女は36と38。いやみなくらい肌の露出のない、モノクロームのパンツスーツ。女たちのなかにはウエストを安全ピンで詰めてみせる者もいる。ある種の若い女たちにとってはスキニーが最高の価値なのだ。わたしは、そうは思わないけど。

 英語が話せて気が利いて見栄えのするバイトを集めなくちゃいけないんだよね、どうかな、やってもらえないかな、お金は、たいしたことないんだけど、気晴らしにはなると思う、有名人が見られるし。

 そういう誘いを受けて、わたしは気分がよかった。もちろんわたしは英語が話せるし気が利いているし見栄えもする学生で、たまには変わったアルバイトをやってあげてもいい。有名人を見たり、ふだん接しないタイプの人と話すのも楽しいーー彼女とか。

 わたしの大学にもちょっとださい女の子はいっぱいいるけど、彼女みたいではない。あの子たちは「早く洗練されるといいですね」という感じ。それに比べて彼女は、ちょっとださいんだけど、そこがかわいさの秘訣でもある。下手に洗練させたら損なわれる。かといってばかな男が妄想するピュアとか素朴とか、そういうのでもない。個性。そう、小学校の先生がよく口にしてわたしが内心鼻で笑っていた、あの語彙しかあてはまらない。個性がある。

 彼女はわたしに話しかけられたらうれしいはずだとわたしは踏んでいた。大学生はだいたい愛想がいいし、とくに女子は人前で露骨に嫌な顔をしない人が多い。わたしたちはけんかなんかしない。冷淡な顔なんか見せない。いやなら未読無視。人生から消す。それだけでいい。だからこそ事前の予測は重要だ。自分から話しかけるときは自分に話しかけられてうれしく思う相手だけを選ばなければ。

 彼女はわたしに話しかけられて喜んでいるはずだと思う。わたしの態度に親しみを感じていると思う。だって、わたしは、「すごい」大学に通っているし、見栄えだっていいし、彼女よりずっと洗練されているし、物知りだし、どこへ行ったってうまくやれるし、彼女をどこかに連れて行ってあげることだって、できるし。

 アルバイトを終える。帰り道で彼女をつかまえることはできなかった。帰りの電車に乗る。LINEの交換をしたときにその場でたがいに送った無難なあいさつを読み返す。読むというほどの文字数もない。見ているといったほうが正しい。

 ねえ、わたし、あんなに話しかけたよね。LINEくらい、そっちから送ってきてくれてよくない? ねえ、あしたでこのバイト、終わるんだよ。わたしが話しかけたの、ほんとは迷惑だった? ぜんぜん楽しくなかった? わたしになんか関心なかった? わたしの名前覚えてる? ほかの人とごっちゃにしてるんじゃない?

 冷や汗が出る。スマートフォンを握った手をコートのポケットに入れる。冬は好きだ。大きなポケットが使えるから。レディースファッションの大きな欠点はポケットがろくにないことだと思う。コートだけが例外だ。

 振動。

 LINEだ。彼女から? 彼女からだよね? きっとそうだよね?