傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

敏腕家庭教師の子ども

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために保護者ぬきでの行動範囲が狭い年齢一桁の子どもたちの生活圏がぐっと狭くなった。疫病の状況によって可能なことが変わるので、それについていくことも必要である。学校に行けない時期があったり、習いごとができたりできなかったり、友達の保護者の方針によって一緒に遊べたり遊べなかったり、といったぐあいである。
 わたしは子のない大人であって、小さい子どもの心などとうにわからない年齢だけれど、よその子のようすを見るだにストレスフルだろうと思う。疫病やら社会やらのしくみを納得いくまで理解できる年齢でなく、自分に合った日常を構築しなおすための選択できる年齢でなく、(なかには可能な子もいるのかもしれないが)ぱーっとお金を使うといった一時的な気晴らしもできない。

 そんなだから友人から「娘の家庭学習について相談がある」と言われたときにも驚きはしなかった。そりゃあ家庭学習にも支障が出るだろうと思ったからだ。
 友人の娘はカナちゃん、今年八歳、何度か会った印象では言葉も達者でしっかりしたお子さんである。しかし友人に言わせると最近どうも素直に勉強してくれないし成績も心配だという。
 聞いてみるとカナちゃんは全然勉強していないのではなく、強固に自分のペースを貫いているということのようだった。たとえばやる気になれば五分で終わるちょっとしたドリルがある。親である友人はそれをやるように言う。「だって五分で終わるのだし」と言う。でもカナちゃんはやらない。延々と(保護者から見ればあんまり役に立たなさそうな)小説を読んでいる。何度か声をかけると振り向き、キリッとした顔で「わたしには今これが必要なの」と言ったそうである。

 友人には悪いのだけれど、わたしは笑ってしまった。いいせりふである。
 この友人は学生時代、たいへんな敏腕家庭教師だった。わたしも同じ事務所でアルバイトをしていたのだけれど、彼女の時給は事務所でいちばん高かった。教えるのが上手いのである。とくに成績が平均前後の子どもの得点を全科目まんべんなく上げて上位校に合格させるのが得意だった。
 あまりに子どもたちの成績が上がるので、コツを尋ねたことがある。すると彼女はこう答えた。できなかったところは何度でもやってもらう。焦らない。待つ。ぜったいに嫌な顔をしない。そういう気持ちを持たない。「どうしてここができないんだろう」と問われたら「繰りかえせばできるし、ほかはできている」と言う。だって、それが事実だから。あとは時間配分の問題。

 カナちゃんにもそういうふうに教えているの、と訊く。彼女はいささか気まずそうに「どうしてできないの、できることをしないのって思っちゃう」と言う。そりゃそうだろうとわたしは思う。だって自分の娘だもんな。自分と同じようにできてほしいと思ってしまうだろう。他人の子とは距離感がちがう。
 でも、とわたしは言う。それでもあえて言います。あなたは学業成績きわめて優秀な人でしょ。配偶者もそうでしょ。極端なんだよ。そしたらその子どもは極端じゃないほうに近づく可能性のほうがずっと高い。平均への回帰ってやつ。

 彼女はもちろんそんなことはわかっている。ことは理屈ではないのである。彼女はわたしが繰り出す程度の理屈はぜんぶわかるので、「相談」というのは「理屈でわかっていることができないのでその話を聞いてくれ」という意味である。
 この状況下では子どもがかかわる大人が少なくなるからねえ、とわたしは言う。親御さんはたいへんでしょう。お子さんもたいへんだ。かかわる人数が少なくなると、なんていうか、酸素が減るんだよ。カナちゃんは小説という他者を招き入れて上手に外気を吸っているのだと思うよ。
 ああもう、と彼女は言う。どうして、五分でできることを、ぐずぐずといつまでも、やらない。終わったらまた小説読んでいいのに。動画もゲームも決まった時間内ならやっていいのに。理不尽だ。やりなさい。すぐ。五分なんだから。「やらなければなあ」と思い続ける脳みそのリソースが無駄。精神の負荷が無駄。無駄無駄無駄ッ。
 わたしはガヤを入れる。いいぞいいぞ、どんどんいこう。
 彼女は言う。わたしならやる。でもカナはやらない。ふう。やれやれ。

 わたしは思う。自分にすごく近い人は自分みたいな気がしちゃうときあるよな。だからときどき確認しないといけなくなるんだよな。