傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

キラキラで見えない

 ばかではないんだよと、彼の上司は言った。そうでしょうとも、と私はこたえた。ばかじゃないという語の示す意味はいろいろあるけど、この場合はすごく単純で、四則演算ができないのではない、という意味である。

 経費の適切でない使用に関する面談がおこなわれた旨の報告が終わったところだった。おそらく自分から辞めると思います、と人事担当は言った。入社した人間は会社にいてほしい。それが採用人事の成功というものである。だから今回は失敗で、管理職同士で顔つきあわせて反省したりしたのだけれど、何をどう反省すればいいのか私たちにも実はよくわかっていないのだった。

 人事担当が彼に辞めてほしいと判断した理由はしごく単純だった。経費の使用にかぎりなく黒に近いグレーな行為が判明した上、彼に貸したお金を返してほしいという旨の電話が複数回かかってきたのだ。カネの問題、それも巨額ではない、高額ですらない、些末なカネの問題である。

 かぎりなく黒に近い些末なグレーを黒だと断じるための手続きを踏んで処分を議論してその後問題が再発しないように気をつけて、というのは、会社としてもけっこうしんどい。「貸したカネがかえってこない」という電話がかかってきたことが後押しになった。辞めてくれたほうが助かるというのが人事の率直な意見だろう。

 彼は新卒で就職して二年目の若者である。いつもぱりっとした格好で、見栄えが良い。誰とでも如才なく話す。ただし、如才以上のものは感じられない。彼は私の直属の部下ではないし、表層的な会話しかしたことがない。だから人格のことはほとんどわからない。学歴はきわめて派手な部類である。どう考えても収入と支出の算数ができないとは思われない。

 何かお金が必要な差し迫った事情があったのかといえば、どうもそうではないらしい。社内の年齢の近い男性たちによれば、彼は周囲よりさまざまな場面で「ワンランク上」の消費をしていたのだそうだ。実家が金持ちなのかと思ってました。じゃなかったらあいつだけ給料がすごく多いのかなあとか。彼らはそのように言っていた。少なくとも給与に関してはそのような事実はない。新卒二年くらいまでの収入は似たり寄ったりである。

 おれはあいつ、変だと思ってましたけどね、と彼の同期が言った。あいつのSNSみると、カネ使ってんなーって思うけど、それ以前に、なんか妙だなと思います。個人的には、めちゃくちゃ流されやすい人間なんじゃないかと思って見てました。好きで贅沢してる感じじゃ、ないんですよね。贅沢好きな人間はおれのまわりにもいます。そういう連中はただ享楽的で、気持ちいいのが好きなんだ。でもあいつはそうじゃないです。あいつは楽しくて浪費してるんじゃない。

 なんていうのかな、うまく言えないんだけど、「誰かがいけてると言った要素」を切り貼りしてるっていうか。それが結果的に贅沢に見えている、裕福に見えている。そういう感じ。わかりますか? 切り貼りの対象にもあんまり統一感がない。

 理想像を持つ人間は多いです。おれにもある。でもその理想を選ぶのは自分です。あこがれの相手を選ぶにも自分の側に何らかの芯が必要なわけですよ。あいつのSNSを見てると、その芯みたいなものが見えなかった。なんか、切り貼りで、ふわっとしてた。薄いとか浅いとかじゃないんです、若い人間の理想像が浅かったりペラかったりするなんてよくあることです、あいつのは、なんていうか、切り貼りの基準がなくて、しかも切ったものをちゃんと貼ってないっていうか、貼り合わせる糊がないっていうか、そういう感じでした。

 私はお礼を言ってその場を離れた。彼にはキラキラした自己像があり、そのために経済的に破綻した。そういうことだろうか。そしてその自己像は、キラキラしているけれど、光源や反射素材が決まっていなくて、ただキラキラしていた、そういうことだろうか。そうしてそのキラキラが彼の目をふさいで「収入の範囲で支出する」という引き算ができなくなって、会社に電話をかけてくるような相手に借金をしたり、経費を不正に使用したのだろうか。

 私は利子のつく借金をしたことがない。損だからである。分割払いさえしたことがない。損だからである。自己に関する理想像を持ったことがない。SNSもやっていない。そういう人間がいくら想像しても、「どうして収入の範囲で生活せずに不正にまで手を染めてしまうのか」なんて、わからないのかもしれなかった。