傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

虚構を発注する

 待ち合わせの駅前で降りると友人がいる。近づくと「半分くらいいる」という印象である。存在感がない。気配が茫漠としている。あいまいな微笑を浮かべ、あいまいにあいさつする。よく言えば棘がない、悪く言えば覇気がない。いつもは覇気がありすぎて長時間一緒にいるとちょっと疲れるので、これくらいでもOKじゃないかなと私は思うんだけれど、本人はふだんできることもできなくて困る、と言う。

 友人はぽつぽつと話す。休日をまる一日、ベッドで何もせずに過ごした。仕事は最低限しかできていない。仕事がらみの勉強はほぼ停止している。賑やかな場所に行く約束はみんな断った。インターネット経由ですらコミュニケーションが負担になるのでSNSのアプリはみんな削除した。どうせまた入れるんだろうけど。

 そうかいと私はこたえる。休日ずっとベッドでぐだぐだしているなんて私には日常のことで、一日どころか休みが二日あれば二日そうしているのだし、仕事が最低限になることもよくあって、まあ後でどうにかできるだろうと思って平気でいるのだし、SNSに至ってはそもそもやっていない。

 そのように話すと友人は、マキノと一緒にしないでほしいと言う。そうかいと私は思う。それから、近ごろ悲しかった話をするよう、友人に言う。何もなかったというのなら、漠然とした不安を呼び覚ますものごとについて話をするようにと言う。それもよくわからなければ、いまそのからだに詰まっている疲労の感触について、できるかぎり詳しく描写してほしいと言う。

 情緒が安定しているのは結構なことだけれども、安定の秘訣が「面倒な感情を感じないこと」である人間がときどきいる。この友人もそのひとりである。「悲しい」みたいな気持ちはろくに見ないで、なんかこう、内面の箱みたいなところに突っ込んで、しらっとしている。当たり前だけど、見ないで箱に詰めたものはそのままにしておくと腐る。そうすると人間はだいたい弱る。この友人はそうやって弱ったときに私を呼ぶ。

 私は弱った友人の話を聞く。長い時間をかけて、友人が自分の感情を突っ込んだ箱をなでまわす。その箱は友人のものだからもちろん私には開けられない。でも私は「そんなの悲しいに決まっている」と決めつけ、「よし私が悲しい話を書いてやる」と言う。

 私はおおむね愉快に暮らしているんだけれども、たいそう涙腺が弱い。すぐに泣く。フィクションで泣くのは当たり前で、なんなら自分の想像だけで泣く。毎週泣く。友人から悲しいエピソードを聞いて、それをもとにお話を書くときも、もちろん泣きながら書くのである。

 友人は泣かない。泣くかわりに私に話をする。私はその話に嘘をまじえたりして読み物に仕立てる。友人はそうやって作られたフィクションを読み、「悲しい」と思って、それですっきりするのだという。読んで泣くのと訊いたら、いや、べつに、という。せっかく書いたんだからちょっとは泣けよと思うが、泣かなくても本人の気が済むならまあ良い。

 他人のことなら悲しめる。友人はそう言う。あなたの書く話に出てくるのは、たとえ自分が話した内容と同じでも、ただのお話で、そこに出てくる人は、自分じゃないから、他人事だから、悲しいなと思う、同じエピソードでも自分が渦中にあると、悲しいと思わない、思えない。

 そうかいと私はこたえる。どういう形式でも、出すもの出せたらそれでいいんじゃないかな。その場で怒ったり泣いたりするのも場合によっては考えもので、本人が損をすることもある。そういう世の中に適応した結果、たとえばひとりでいるときにも泣かなかったり、自分の感情を読み取れなくなることもある。あなたはきっとそうだ。

 それを悪いと私は思わないよ。人に話をして相手に泣いたり怒ったりしてもらう人もたくさんいるよ。あなたの場合はフィクションに仕立て上げられてはじめてそこに込められた感情を認識できるわけで、ちょっとこじれてるなあとは思うけど、だいじょうぶ、問題ない。好きにこじれろ。死なない程度にこじれろ。歪みこそが人間の妙味というものだよ。あなたは、調子が悪くなると、私にストーリーを発注して、押し込めた感情を消化している。だからだいじょうぶ。これからも頼りにしてくれていいんだよ。

 下衆だなあ、と友人は言う。マキノはそうやってもっともらしいせりふで、善人みたいな顔して、他人が押し込めた感情を引っ張り出して取って食って「うまい」「珍味」とか言ってる。ほんとうに下衆だ。もちろん、これからもその下衆な楽しみにつきあうとも。おもしろいから。