傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

人格を売る

 医者だから高潔な人格者だなんて今どき誰も思わないって、わたし、思ってた。医学生のとき。だってそんなわけないじゃん。わたしたちはただの、そこらへんの、生きるために仕事してるだけの人じゃん。でもさあ、医者は特別にきちんとした立派な人間だと思ってる、というか、そうあるべきだと思っている患者さん、けっこういるんだよ。卑しい人間、あるいは単に「メシを食うために仕事をしている」という人間は、彼らにとってハズレの医者。医療行為ができてもだめ。立派であるべきなのにそうではないから、だめ。泣いたり不安定になったりもしない、人が死んでも動揺しない、でも人情はある、それが彼らの頭の中のあるべき医者なんだ。そういう前提の患者さんがかなりいるんだ。ほんとわかんない、わたしは、仕事として医者をやっているし、患者さんが死んだら動揺する、隠しきれてない。

 わかるわあ。先生は子どもを愛して当然だって、保護者は思ってるみたい。わたしが提供しているのは教育サービスだよ。愛じゃない。愛が業務に付帯するなんてどこにも書いていない。それなのに、みんな、献身的な教師が好き。教師ってさあ、ただの仕事だよ、献身なんかしちゃいけないよ。でもみんなそういう話、好きみたいなんだよねえ、献身とまではいかなくても、子どもが非行に走ったときには夜中でも何でもかけつけてゆっくり話を聞いてあげるとか、担任の子どもが恵まれない立場にあったら自分のお金をあげたりとか、そういうやつでも。わたしは、そんなのおかしいと思う。それをして当たり前だという感覚、むちゃくちゃだと思う。

 でもさあ、その種の幻想をぜんぶとっぱらっちゃうわけにもいかないと思うんだよ。わたしはその幻想に凭りかかって仕事をしている部分もあると思うんだ。彼らの幻想を利用しているなって思うんだ。

 どういうこと。幻想がない人もいるよね。学校でいうと、モンスターペアレントと呼ばれるような人たちは、ぜんぜん幻想持ってない。どちらかというと教師を自動販売機みたく思ってる。百円入れたのに指定のお茶のペットボトルが出てこないから蹴るみたいなかんじ。

 まあね、幻想のない人はいる。少しは持っている人が実はかなりの割合で、いる。彼らが治療上の指示にしたがってくれるのは、お医者さんは立派なものだと思っているから。わたしは、「患者が医者の指示にしたがうのは、医療というサービスの受益に必要だから」と思っているんだけど、どうもそういう人ばかりではないみたい。そしてそれが診療を成り立たせている場合がある。かなりの割合である。

 それは、つまり、「立派な人であるはずだから言うことを聞いて薬をちゃんと飲む、みたいな?

 そうそう。立派な人だからこそすんなり言うことを聞く。そういう人かなりいるとわたしは思ってる。だから幻想がなくなってほしい一方で、なくならないでほしい。幻想だけがなくなったら、わたし、医者続けられないかも。自分では優秀なサービス事業者になりたいと思ってるんだけど、「立派な○○先生像」みたいなのをこっそり併売して乗り切っているのかも。

 ああ、それは、わたしもそうだ。子どもと大人という権力の非対称性に「先生のほうがえらい」という幻想をしみこませて、それでもって教室を制御してるんだ。うちの子たちは確実に「勉学を身につけるためには教師の言うとおりに授業を聞くことが必要だ」とは思ってない。「先生に怒られると怖いような気がするし、この場で重要な人物みたいな気がするから、あんまり考えず指示にしたがう」と思っている。子どもがいっせいに蜂起したら、ぜったいにかなわないのに。

 学級崩壊だ。なるほどねえ、学校という場から権威の幻想を剥がすと、そうなるか。

 学級崩壊まじ恐怖、考えうるかぎりもっとも悪い夢のひとつ、学級崩壊に遭わないためならわたし「立派な先生」の人格なんかいくらでも偽装する、仕事に関するポリシーも投げ捨てる、学級崩壊超怖い。

 ねえ、わたしたちの人格は、仕事のための売り物じゃないよ。でもわたしたちはそれをたしかに売っているよ。偽装とあなたは言うけれど、わたしは偽装では済まなかったと思っている。皮膚を青く塗り続けているうちに色素が少しずつ沈着したと思っている。わたしの皮膚はもとの塗料ともちがう、薄汚い色になった。もう洗い落とすことも剥がしてしまうこともできない、わたしの一部になっている。