傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ごめんね、おばあちゃん

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでわたしはしばらくおばあちゃんに会えていない。
 わたしのおじいちゃんはもう亡くなっていて、おばあちゃんは地元の施設に入っている。わたしが大学に入った年に疫病が流行しはじめたのでそれ以来会っていない。地元にいたときにはそれなりに会っていたし、わたしが小さかったころは近所に住んでいてしょっちゅう会っていたから、今はもちろんさみしい。
 おばあちゃんは(今にして思えば)すごく元気なお年寄りだった。わたしが小学生のころまで一緒に公園でジャングルジムにのぼったりしていた。ごはんもいっぱい作ってもらった。おばあちゃんはわたしのお父さんのお母さんで、女の子を育てたことがなかったから、わたしが生まれたときにはとても喜んだと聞いている。
 おばあちゃんは陽気でお友だちがいっぱいいて料理が上手でおしゃれが好きで、毎月美容院に行っていつもきれいにしていた。

 でもわたしは最近おばあちゃんと電話したくない。
 おばあちゃんはわたしにワクチンを打ってほしくないと言う。将来子どもを産むんだからと言う。きっと困るからと言う。心配だからと言う。

 わたしは理系で、ワクチンについては自主的にみっちり勉強していて、どう考えても打たないほうが危ないと思っている。
 ワクチンの受付がはじまった日にはアルバイトの予定をずらしてもらってまで時間をつくってPCに張りついて予約をゲットした。副反応が強く出たときのために友達同士でワクチン接種の日付を共有しているし、冷蔵庫には二リットルのポカリが二本、レトルトやレンチンで食べられる食料も三日分ある。解熱剤や痛み止めの準備もした。接種する気まんまんなのだ。だって、どう考えても、そのほうがわたしのためだし、みんなのためだし。

 若い人もものがわかっていたら打たないのよとおばあちゃんは言う。完璧に安全だという証拠はどこにもないの。年寄りだけがそう言ってるんじゃないの。若い人にもそういう発信をしている立派な人もいるの。ねえ、危ないことしないわよね。一生後悔するかもしれないんだからね。とくにね、女の子なんだから。

 わたしはほんとうはこう言うべきなのだろう。

 おばあちゃん。もとから医療に完璧なんかない。今までは「こうするのがいい」と言ってもらえたかもしれない。でもそれは完璧な安全の保証なんかじゃなかった。まして新しく流行した病気なら、ある程度の材料でリスクを判断するしない。ワクチンで具合が悪くなる人が出るのは当たり前のことだし、将来生まれる子どもがどうこうなんていうのはひどい偏見じゃないか。
 おばあちゃん、わたしはね、誰かに安全を保証してもらうなんて思わない。そんな保証はありえないから。それなのに自分の言うとおりにしなさいなんていう人は、だいたい他人を利用しようとしているんだよ。わたしは「怖いから考えない」「断定してくれる人に判断をあずけてついていく」という人間にはなりたくないんだよ。
 おばあちゃん。おばあちゃんだってきっとそうだったはずなんだ。わたしの知っているおばあちゃんは、完璧な安全なんかない世界で、いっしょうけんめい考えて判断してわたしを守ってくれていたよね。わたしが小さかったころ、危ない遊びだって見守りながらさせてくれたよね。

 わたしはそう思っている。
 でもおばあちゃんには何も言うことができない。
 わたしはおばあちゃんが陰謀論みたいなことを言い出したらたぶん耐えられない。わたしの将来の幸福を「元気な子どもを産む」に限定したようなことを言うだけでもショックを受けてしまう。
 しっかりしていても高齢なのだから。気が弱くなっているのだろうから。このご時世で少し混乱しているかもしれないのだから。そういう解釈は、よそのお年寄りにはできるけど、わたしのおばあちゃんにはできない。そんなことしたら、わたしの大好きなおばあちゃんがいなくなってしまうもの。わたしのおばあちゃんは、そんな人じゃないんだもの。

 わたしはほんとうはおばあちゃんに自分の考えを言うべきなのだと思う。ワクチン打ったからと言って会いに行くのがいいのだと思う。それが正しいのだと思う。でもできない。
 わたしは正しくない。わたしは弱い。だからわたしはおばあちゃんと話をすることができない。きっとわたしからの電話を待っているのに、できない。ごめんね、おばあちゃん。