傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

世界の底にあるべき網

 ママなんか、と息子が言う。すごく怒っている。息子はもうすぐ五歳になる。五歳ともなると腹立たしいことがたくさんあり、しかもそれを言語化することができる。歯を磨いたあとにアイスクリームを食べさせてもらえないこととか。現在の彼にとって、それはとても重要なことなのだろうとわたしは思う。しかしアイスクリームはあげない。歯を磨いた後だもの。

 息子はとても怒っており、そのことを表現している。もうすっかり人類だなあとわたしは思う。わたしと同じたぐいの生物だと感じる。二歳まではそうではない。言語を解さない存在には隔壁を感じる(言うまでもなく、そういう感覚は愛情の有無とは関係がない)。赤ちゃんともなると喜怒哀楽が分化していないから、怒るということがそもそもできない。快不快の不快を泣いて示すのみである。

 ママなんか、すばらしくないもん。

 わたしは眉を上げる。息子は言いつのる。ママなんか、せかいいちじゃないもん。ポケモンマスターになれないもん。

 わたしは必死にまじめな顔をつくり、否定とも肯定ともつかない発音で、そう、とつぶやいた。憂いを帯びた声を出したつもりだ。息子はとたんに後悔の色を浮かべ、しかし引っ込みはつかないらしく、前言撤回はしないのだった。すねたときにいつもそうするように、ちょっと前に気に入っていたおもちゃを引っ張りだした。わたしはアンニュイな空気を発しながらテレビのリモコンを手に取った。

 カウンターの向こうの台所をちらと見遣ると、夫がものすごく真剣な顔で皿を洗っている。わたしたちは子どもが泣いているときや怒っているときに笑ってはいけないと思っているのだ。悪意がなくても、子どもの切実な感情表現を茶化すことになるから。茶化したら傷つくじゃないか。叱られても傷つくかもしれないけど、傷つく可能性のぶんだけ価値がある。茶化すことには親子にとっての価値がない。

 そんなわけでわたしと夫は耐えに耐え、息子が眠ってからおおいに笑った。美しいとか素晴らしいというのはわたしがわたし自身をよくそう評するので、息子が覚えたのである。わたしは何かというと自分をほめる。生活に負担を感じたとき、自分を指して、すばらしいなあ、と言う。自分が苦労していると思いたくないからだ。豪雨のなか自転車をこいで保育園のお迎えに行くわたしは、かわいそうなのでもなく、えらいのでもない。すばらしいのである。同じく、朝はやく起きて子どもに身支度をさせて送っていく夫は気の毒なのではない。立派なのでもない。ただすばらしい人なのだ。

 息子の語彙には罵倒がない。だから罵倒しようと思ったら、褒めことばに否定語をつけるしかない。最低限の罵倒の語彙があれば、ママのばか、と言ったかもしれない。でも息子の世界を構成する要素のなかに「ばか」はない。夫はといえば、ママの料理は世界一、というのが口癖だ。どうやら息子とふたりの時間にも「ばか」は教えていないようだった。

 それが完全に良いことだと、わたしは思わない。子どもの世界を形成することばを清潔に保ちたいという願望もない。息子は遠からず罵倒の語彙をそろえ、偏見から生まれた言い回しを学習し、それを使うだろう。わたしと夫が手渡した語彙だけの中におさまっていることはないだろう。それでいいのだ、もちろん。息子は保育園で他者とことばを交わしているし、いずれ小学校やその外の世界でたくさんの人と話をする。わたしがすすめたくないテレビ番組にも興味を示すだろう。本だって自分で選んで読むだろう。インターネットも見るだろう。息子にはそれらを自分で選ぶ権利がある。もちろん、わたしたちがわれを忘れ、たがいを口汚く罵倒する可能性だって、じゅうぶんにある。

 けれども、息子がまだ幼い今、相手をもっとも悪く言うための表現が「すばらしくない」であることを、わたしは可笑しく、うれしく、それからいささか誇らしく思う。わたしが笑いをこらえ、ポケモンマスターになれないという宣言に憂いのそぶりを見せている今を、ずっと覚えていたいと思う。わたしたちの息子がわたしたちの編んだことばの網のなかにいたときのことを、忘れてしまいたくないと思う。

 わたしは夢想する。息子が大きくなったとき、その網が息子と一緒に強度を増していることを。息子が成長し、その世界が清濁を含んで大きくなって、でも世界の底にはわたしたちが手渡した網があるところを。息子が自身の構築した、わたしたちの知らない世界の中で足をすべらせたとき、その古く小さな網が彼をしっかりと受け止めてくれる、そのようすを。